僕の周りには、出世しない人が多く集まっている。(多くの人が怒るだろうが、実際僕自身が、会社で働いていた時に、出世など考えていなかったので、許しもらいたい)そもそも、出世を真剣に考えている人は、面白くない。出世とは、人の評価であり、才能のない人は、評価する人に胡麻をすらなければならないからである。もちろん、人は人に気を使わなければならない。(向こう三軒隣である。夏目漱石)しかし、行き過ぎは、鼻につく。
今井崇は、天才である。彼の弱いところを差し引いても、彼の“馬鹿さ加減”は、周りの人に大きな笑いと、想像性を分け与えてくれる。実際に、どのようなことをマッドフットでし、どのようにこれからいくのかわからないが、それを超えたところの、彼の“ハレ”の部分には、見習うことがおおい。彼を見ていると人生の“ハレ”とは“人生を楽しむ”ということをつくづく感じる。私は、彼に悩みや不安がないなどと言っているのではなく、彼の人と人の繋がりに対する、心配りの仕方が、天才であると言っているのである。
宗教的、哲学的。もちろん、生物学的。といろいろいえるのだろうが、人は死ぬ。どのように、死ぬかはそれぞれ違い、いい、悪いはその人の判断である。お金が欲しい、お金を集めたい。人を踏みにじりたい。人を幸せにしたい。(もちろん自分も)しかし、私の様な凡人は、死をせいの一部として認識することは、到底できない。死とは、一つの終わりである。私は、宇宙にも終わりがあると信じており、私達の大枠がわからないところでは、認識とは限られると考えている。
そこで、出世と天才。これは比例しない。もちろん比例している場合もあるが、そうばかりとは、とてもいえない。その例は、今井崇ではないだろうか?彼は、伊藤忠の中では到底認められないだろう。しかし、彼は天才である。生きる土壌がお互い違い、上に行けば上に行くほど、矛盾を感じてくるのではないだろうか?
私には、肩書きがない。ただただ、小さいコミュニテーに属しており、ボチボチできる限りの努力をし、時間がない、時間がないと、日々反省している。また、体力がない。疲れてしまうのだ。だが、昨日は楽しかった。福蘭(?)という餃子、シュウマイ屋さんに行った。今日は、体の中から油ぽい。今日は、やられている。(体の調子が悪い。しかし、心の調子はいい。)今井崇を含めた、出世しない人の“ハレ”のおかげである。今日も楽しくやりたいと思う.
今井くんに誤字脱字が多いと怒られた、すみません。
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