マーラーの勉強をしている。なぜ、マーラーは、現代、世の中にそびえ立てているのか?その音楽に何が隠されているのか?それを求めるため、いや、もしかしたら、私が何者なのか?私の何が私を馬鹿さ加減へと向かわせるのか?を理解するためにマーラーを聞いて、文献を読むのかもしれない。
世の中は常に動いている。まずはここから初めてみよう。現代とは、何であるのか?本当にその時間が生み出す物が存在し、その存在が普遍的であり得るのか?その普遍性の意味とは、何であるのか?普遍性の中に含まれる範囲とは?時代の中で、生きる。それは、カートボネガットの言う“ドフトエウスキーはすばらしい。しかし、今の世なのかにはほかの物も求められている”という言葉の中にも含まれている、時間。そんな時代に生き続けるマーラー(1860−1911)が今の世の中に生きるのである。
マーラーの音楽の中には、聞き慣れたフレーズが存在する。それは、私達の原風景を表す物か?それとも街の中の喧噪なのか?それとも、爺婆、父母の子守唄なのか?そのフレーズの存在とその意図する物の関係を読み解かなければ、マーラーは理解できないのである。もしくは、それが理解できたとしても、マーラーの意図したもの、意図せず発生した物をすべて理解することはできないのである。しかし、私は理解しようとする。その時の家庭は静かでなければならない。
マーラーの音楽は、音の強弱が激しい。本当に静かでなければ聞こえないことが、とても多い。家の中の喧噪がなくなる時間、1時から4時までの時間に聞くしかない。夜な夜なその時間に起きて音楽を聴き、文献を読む。(先日は、聞いていたときに、いえの中がうるさく、いい加減にしてくれと家族に文句を言ったのだが、家族としては、私の存在の方がいい加減にしてくれ、ということになるのだろう)理解できずに終わることが多いのであるが、やはり耳にこびりつく、そのメロディーは何を叫び、なぜそれほどまでに死を恐れるのだろうか?彼は、どこに行きどこに行き着くのか?民族の統合、自然と人の調和。すべての人から、隠れるような音の連続にある日突然、光を与え、存在を照らし当てるのである。それは、トマスマンの“魔の山”に続く、自己との対自なのかもしれない。
そこには、やはり時代は流れ、自己はその中でしか生きることができない、悲しい人間を表しているのかもしれない。マーラーの最後の言葉“モーツアルトーーー”の中にも時代と自己の現代性を表す言葉でしかない、“悲しさ、そして飛躍を”含むものを肯定的に含む現代を表すのであろう。
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