まずは、面白い。なかなか意味を理解するのは難しいが、なかなか内容が面白い。(本当に内容を理解しながら読んでいる訳でもなく、流れを読んでいるだけである。しかし、中には理解できずに悔しい思いをし、先日は本屋に行って集合論なる物を探してきた。)その次に、この本が2000に書かれたことが愕然とする。(今は、2012である。12年も前になる)また、このように、歴史的哲学を紐解くことは、自分の人生を見つめ直すのにも良い機会である。(もう少し前に知るべきである。)
解らないことを解ろうとするのは、労力が必要である。労力以外にも、根気が必要である。(根気は体力が必要であり、謙虚さが必要だ。)解らないことが多すぎる人生を如何に楽しく生きることができるのか?それは、周りの人によっているのではないだろうか?いろいろな人がわたしの周りに現れては消え、そして他の人が現れる。その中で、わたしのことをどのくらい解っている人がいたのだろうか?これは、自分で自分を解らないのと同じように、他人にはわたしのことなどどうでも良いのではないだろうか?
猿の社会的なコミュニケーションは、約150であると言われている。ならば、人は、多分150であろう。(もちろん約であるが)それならば、その中でどのようなことができるのか考えてみたい。なるべく、濃い話をし、(もちろんなにが濃い話かは、人により違うはずだが。)良い時間を過ごす。(簡単に進まない時間は長いが、解ると短い)その中で自分を見つけ、死んでいくのが人生なのである。(わたしは、マークテゥエインのような人生を言っている訳ではない)
数字は、何時でき、どのように人に影響を与え、果ては、それがないであるのか?それは、我々の住む宇宙とはなにであるのか?地球とは?人とは?疑問の中の疑問に答えるために数学を解きほぐすのであろう。そこには、答えがなく、何もない。しかし、わたしの人生に“何もない”と言えるのであろうか?本当に人生とは、哲学なのである。
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