思潮社の“戦後代表詩選”の中で、鮎川氏、大岡氏、北川氏の対談“戦後詩の歴史と理念”のなかで述べられている詩の現代的なリアリティーについてのコメント“言葉はその時代の鏡であり、その中でしか生きることができない”もしくは“詩は絶えず変化をする”のである。それは、時代により人が人を愛する表現の方法が違うように。例えば、今の人は、“好き もしくは 愛している”をメールで言うのではないだろうか?昔は、文。(手紙)そのまた昔は、もっと原始的にいきなり抱きかかえる。(少しオーバーかもしれないが)
吉岡実の“伴侶”はいつ読んでも不気味だ。飯島耕一は、少し哲学的で、少し孤独だ。すべてが詩が社会の中での自分と、自分の中での自己を求めるために書かれてはいるのだが、その時代背景が変わるとその表現方法が変わってくるのである。それはスニーカーの価値観が時代によって変わるように。
そして私の詩
かく
わたしのまわりの闇を見つめる
闇の中から頭を持ち上げる怪物は夢の中からうまれるのか?
その木の根元には わたしのありとあらゆる感情、喜び、憎しみ、欲望をふくみ“まわり”をつくる
かく
なにをかく?感情を放出するためにかく
本当?その前にあるわたしの頭は本物か?
誰かが呼んでいたっけ“お化け”
お化けもまとまると愛嬌がある お化けの学校
お化けの歌を歌うためにかく
かけ かく 愛の歌をかく
エウァンゲリオンの愛の歌は シンジとアヤナミの生命体
古事記?それともあのすばらしい愛をもう一度
かつて感じた太陽に再敬礼し 笑った日々 笑う日々
バタイユは太陽肛門
情なる天使は こういった かけ
そして物語ははじまった
むかし むかし
詩の行間は広い。世の中が広いのと同じように
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