人はなぜイメージをするのであろうか?他の生き物もイメージをするのであろうか?では、イメージとは何であるのか?それは一つには、未来を読むことであると思う。そしてもう一つには、なにげない日々の記憶の底にあるものの吹きだめなのではないかと思われる。今は、バッハを聞いているのであるが、寝ながら聞いていたラフマノスキーの2番では私は、森の中に連れて行かされ、もしくは誰かもわからない人が連れて行かされ、黒い靴を履き奥に奥にと小走りで歩いていくのである。もちろんそれでもその場所のどこかに私は存在しており、それが意味するものを私は知らない。それは何かを見つけたから?それとも何かに追われているから?そして、そのイメージの中の人物が私ではなければ私のそのイメージの中であった人とは誰であるのか?
首の周りにまつわりつく甘い感じと、そのイメージの中にある地面の荒れ具合に、私はなぜかそこに存在するのは、私だけではない感じと、太陽の鼓動のする寒い森の中での木漏れ日を思うのである。それは、まだ行ったことのないロシアの暗さと、ロシア正教の教えなのか?それとも大審判の中の告白が、私の中に活きているのか?私の中の教えは、地場の守り神、宮崎駿のクロクロクロスケと同じものであり、土偶の中に活きる太陽神の大きなおなかと大きな性器である。それでは、なぜその木漏れ日の光を神の様に崇めるのであろうか?森の聖なるものは、私をどこに連れて行こうとするのであろうか?
黒い靴を履き奥へ奥へと行かなければならない理由が存在するのであろうか?それは、見えないものへの恐怖であるのか?それとも私達の中に存在する、母の胎内に戻る行為なのであろうか?戦争で死を迎える人たちは、母の思いを胸に抱き死んでいくそうである。その話をして、母なるママは、大きな笑顔をするのである。人のイメージなどは浅はかで、頼りのないものである。もちろんそこに存在する私のイメージも浅はかで頼りないものなのである。そんな場面が人生に存在しない様にしなければならないのである。勿論全てのひとに対してである。そんなイメージの存在を私は他の人と共有すべきなのである。
私がイメージの中であった、私、もしくは他の人と、またどこかで会うことがあったならば、私は言うのではないだろうか?“今日はいい日”黒い靴を履き下を向きながら歩いている人たちよ、私にあったら“調子どう?”最悪なら、アキラでは“最悪を絵に描いて額に入れた”と表現していた?が今の人ならば、親指を下に向けて“ブー”しかし、太陽は今日も上り、どこかで人が生まれ、どこかで人が死んでいく。もちろん、全ての生物が同じ営みを繰り返し、全ての形あるものも同じ営みを繰り返すのである。その時、私達のイメージはどこにいくのであろうか?
惑星ソラリスには意識があり、タルコフスキーの東京は、未来の世界のイメージを私達に与えるのである。終わりがなさそうなので、ラマノフスキーの2番から派生した私の中の、もしかして私ではない何ものからの、イメージの話を終わりにしたいと思う。(既にオカルトのようになってきてしまった?)黒い靴を履いた誰かさんに良いことがあります様に。
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