世の中には時間が存在しており、その時間の中で人は生活をする。しかし、面白いことに、その時間とは何か?、がわかっていないのである。うどの竹の子のように宇宙が誕生しており、インフレーションなどお構いなしの、次元さえもそしてそれは私達の知らない世界への入り口、しかし、トマスピンチョン、もしくは村上春樹のように出口がなければいけないなどと言えない、出口のない世界の始まりでは、私達の常識も通用しないのである。
プラハの春、クンデラは“存在の耐えられないーー”を書き、私達は今“アラブの春を迎える?”しかし、そのアラブの春なるものがどのようなものか私達、地理的にはなれた人にはその熱気が理解できない。現代の同じ時間に存在する出来ごとさえも理解できない私達はどのように世界を理解し、常識を問うのであろうか?そこの世の中には、ダンテの神曲、それともファウストの劇ともつかない常識、非常識。そこに存在するのは、人々が子孫を残そうとする、生命の利己的、利他的は存在理由なるものだけなのかも?しかし、宇宙も利己的?利他的?どこにも行き場のない存在の軽さ?そこの存在するのは、原始的な愛。
偽善の愛を問うものが世の中の常識を問い、生活へと影響を与える。人は食べていかなければならない。自己防衛の摂取と過剰な摂取を。それは人の欲望の大きさと、不安の大きさに比例する?その地平線に存在するのは、愛と自由?人を愛する自由、自由を愛する私たち。人の上に立つ太陽に時間を任せて、私達は幸せを探す。花園はエデンの園になり得ず、人に手を加えられる?そこには性善説の息をする場所が存在しない。
ミルの“自由論”を読んだ。時代は変われど、そこに活きる人々への“愛と自由と性善説を”祈って果ては、ヘーゲルに行き着く思想の時代性を、そしてソクラテスへと。人は弁明するのであろうが、時代がそれを受け入れるかはその時々によるのである。そこには、ねーちゃんにやらしてもらえるのか?やらしてもらえないのかのタイミングと大差ない時間の流れが存在するのである。常識はその程度のものでしかない?いやねーちゃんにやらしてもらえるのは、史上最高のご褒美である。私はそこまで時間のコントロールを行動で表せられなかったが。
コメント