本日の朝より、ヘーゲルの“歴史哲学講義”を読み始めた。すでに読んだはずなのだが、どのような話であったのか忘れてしまい、改めて読んでいる。このごろ本を読んでいて、ヘーゲルに関係するものには、何かドキドキするものを感じるのである。それは、どうしてなのであろうか? たぶん私が、年をとったせいではないかと思われる。
ヘーゲルだって人間である。彼自身の限度、緒の中で生きる社会での限度というものがあり、人はそれを変えることはなかなかできないのであろう。年をとると、自分の限度を含めて、自分の存在価値をとい直すことになる。なぜ、私達は、(私は)生きているのだろうか? 6歳の私のガキは、種を残すため、と言うであろう。私もガキができて、とてもうれしい。しかし、それだけでないような気もする。そんな気がする、心の変化は、年をとらないと私の場合生まれなかった。
なぜ、スニーカーを売っているのだろう?どこに、その価値が私にとってどこにあるのだろうか?などと思っていたのであるが、何か今朝ヘーゲルを読んでいて、それが普通のことであり、人生とは、それ以上それ以下のものでないような感じがした。この少しの心の変化が、人生においては大切であり、重要になってくるのではないだろうか?
先日も村上春樹のことを書いたのだが、彼は神宮球場で野球をみている時に小説家になろうと決めたというようなことが書いてあったと思う。私達(他者)には理解できないことが、その自己には起こっており、何かが変わるのである。その変化、強いていえば、その心の動きの民意が、国を作るのだろう(ヘーゲルに戻した)
気楽に生きようと思うのだが、そこまで行くにはなかなか難し。だから、今を頑張るのであろう。それが、気楽になるかもしれないから。(まさしくヘーゲル的) 今日も東京は晴れ? 暑い。
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