村上春樹の1Q84を読み、多くの人がそれについて、想い思いのことを述べている。その中のいくつかしか読んでない(それ以上は読めない)が、その中で続編がでると言っている人が多い。本日はそれに対して、検証してみたい。なぜならば、それは、作家としての、本を描くということの姿勢を表す、強いてはその作家が世の中をどのようにとらえているのか?ということである。
私の結論からいうと。続編はあり得ない。また、続編がでると言っている評論家の人の文学への取り組み方の間違いを表したい。小説家(作家)とは、なぜ自分の作品を書くのであろうか?理由はいろいろあるだろうが、その理由を述べるために多くの作家が、自分を代弁するために、小説を書いている。まず、ジェームズ・ジョイスの“若き芸術家の肖像”において、彼は、言葉というものの本質(言葉と物体、言葉と意味)を表そうとしている。ポール・オースターは“ガラスの街”で若い時の自身の土地(NY)と生活に関して、書かなければ行けない必然性を述べている。同じように、村上春樹も、彼の小説に対する一つの取り組み、ここでは、愛と世の中とに対した時の不安、生きる確信を小説にて、どのように表すのか、という態度を述べている。
それは、思っているほど簡単ではないのである。なぜならば、私達は、考えながら生きているからである。どのように、人生と対峙するのか?とは多くの人が常に考えることである。そのわからないことを、村上春樹という、商業的に孤立している(だから売れるのだろうし、だから他の人と違う評価を受けるのだろう)人が、間延びするようなことをするのだろうか? しないはずである。
また、いろいろなことが闇に包まれている、と言っている人がいるが、小説とはそういうものである。レ、ミゼラブルをみてみよう。ジャンバルジャンを疑っていた、コゼットの彼氏(名前は忘れた)はその後どのように自分の今までの行動を、反省し、生きていくのであろうか? 同じように、1Q84のそういったところが、多くの人に愛されるのであり、それをすべて明かさなければ、、満足しない読者は読むべきでは何のである。
文学に憧れて、今に生きる人は多い。僕もそんな中の一人であると思う、スニーアk−を売ることに人生をかけているのだが、自分と対峙する(退治)そるには、本を読むことが大切である。
私は思う。1Q84も12月までだと。
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