先日、伊勢神宮に行ってきた。(初めて行った)大阪から、奈良を通り抜け約二時間、近鉄線にて伊勢に行く。初めての伊勢、どのようなところかと期待半分、興味半分。しかし、そこには、多くの人が(原宿よりも多い人では?)集まるパワースポットであった。山の麓に集まる、神を求めて、団子を食べに、多くの人がここに集まる。
私(私達)は、どこに行くのだろうか?それは、人類のこれまでの、これからもの歴史であり。生きる意味を見つける旅である。神宮には、“神がいる?神はいない?”わからないものを求めて、私達は、生きている?だから、伊勢の神宮に行くのであろう。だから、パワースポットであるのだろう。何もない物をみる。
延べ何億人の人が、今までに神宮に行ったのであろうか?
日本国の神が祀られる、伊勢神宮は、特に江戸時代には、人々のあこがれとして“伊勢巡り”なるものがあった。今で言う“旅行に行こう”である。そこで知らない物を見て、土地の名物を食べ、土地を単純に楽しむ。そこには、哲学も何もない。単純な楽しみである。その楽しみこそが、哲学なのかもしれない。それは、伊勢の名物“赤福”に表されているのかもしれない。(花より団子である。)
そこで、なぜチャプターをやっていくのか?やっているのか?楽しむためである。しかしやればやるほど、頭が痛いこと多くなるのは確かである。それでもやる。その楽しむことと、頭の痛いことのバランスを取りながら、ボチボチ、ガンガンと日々乗りつ落ちつつやっている。
そう、ボチボチ、ガンガンとやることによりチャプターがパワースポットになるように頑張る。そこには地母神(スニーカーくん)がいるのか?
私(私達)は、どこに行くのだろうか?それは、人類のこれまでの、これからもの歴史であり。生きる意味を見つける旅である。神宮には、“神がいる?神はいない?”わからないものを求めて、私達は、生きている?だから、伊勢の神宮に行くのであろう。だから、パワースポットであるのだろう。何もない物をみる。
延べ何億人の人が、今までに神宮に行ったのであろうか?
日本国の神が祀られる、伊勢神宮は、特に江戸時代には、人々のあこがれとして“伊勢巡り”なるものがあった。今で言う“旅行に行こう”である。そこで知らない物を見て、土地の名物を食べ、土地を単純に楽しむ。そこには、哲学も何もない。単純な楽しみである。その楽しみこそが、哲学なのかもしれない。それは、伊勢の名物“赤福”に表されているのかもしれない。(花より団子である。)
そこで、なぜチャプターをやっていくのか?やっているのか?楽しむためである。しかしやればやるほど、頭が痛いこと多くなるのは確かである。それでもやる。その楽しむことと、頭の痛いことのバランスを取りながら、ボチボチ、ガンガンと日々乗りつ落ちつつやっている。
そう、ボチボチ、ガンガンとやることによりチャプターがパワースポットになるように頑張る。そこには地母神(スニーカーくん)がいるのか?
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