文章を読むとは、人の経験を買うことである。そこには、時間を買うことでもある。
文学の話をしよう。一つの時代に一つの文学が存在し、その一つの文学から、一つのそれぞれの作品がうまれてくる。人は時代を超えることができず、そのクローズさせた世界を広げる少しの人に、未来の光を託すのである。人は時代と一緒に歩き、時代とともに滅びていく、人は、その人の周りを離れることが難しいのである。
ゼバールトは、交通事故で死んでしまった。ドイツの作家、私はあまり読まない。どちらかというと、ドイツ文学の甘い感じ(私にとって)がどうしても好きになれない。その中で、ゼバールトの作品は、特色がある。文章の中に写真が載っているのである。私は、その写真の中に存在し、文章の中なのか、写真の中なのか混同してしまう。自分の立ち位置を混乱してしまうのである。この現実を離れる感じが、ゼバールトの良さだと私は、感じている。
また、ゼバールトの作品の中には、湿った石の、ヨーロパンの感覚が存在する。かつて若いときに読んだ本、題は忘れた、中で一人の若い女の人がヨーロパの駅でマスターベーションをする。それも想像の中で。男と女の違い?そんな暗い感じがする、ヨーロパに私は、つながれている。私も過去から逃げることができずにさまよっている。
そして、靴業界。(スニーカー業界ではない)多くの日本の若者は、履物にお金をかけ泣きなってきた、服、靴、小物、などのファッションにお金をかけなくなっていく人は、人とのつながりを携帯に求め、人とつながっている“ような感じ”を楽しむ。それは、文学の中の孤独に耐えうる自分と違う、浅はかな考えなのかもしれないが。多くを語るなかれ。文学を読もう。
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