福沢諭吉の“学問のすすめ”の解説を読んでいる。解説は、伊藤正雄氏が、昭和42年に書いたものである。私の年齢と大して変わらないくらい古いのだが、その当時の日本と今の日本の社会、そこには人の思想、生活様式、社会環境、が異なり、そして諭吉が“学問のすすめ”を書いた、明治のはじめとは、またその社会が異なり、今の人が理解するには努力が必要である。なぜならば、人はその時代の“雰囲気”を現代においても、過去においても理解するのは、とても難しいのだ。難しいから、面白い。難しいから、面白くない。それは人による問題である。
本日、ガキと公文をやっていた。私は、採点を。上のガキが、方程式の問題をやり、“難しい”と言った。しかし、私は言葉を訂正した。“難しいのではなく、面倒くさいのだ”と。解き方はわかる。しかし、時間がかかる。それは面倒くさいのである。しかし、それが出来なければ、前に進まないのである。難しいという問題ではない。下のガキの理解せずに解く、これは難しいのだ。解き方がわからなければ、“うううううん”と糞をするようにうなるしかない。うなる人は、まだいいが、うなれなくなったら、それでおしまい。
“学問のすすめ“の内容とは、大きく異なるが、今はそんなことを思い、寝るのか?雑誌を読むのか?考えている。時代を理解しよう。そんな時代だから。
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