日経流通のチヨダの白土氏の記事を(私自身何度か面識がある)読み、私自身もそう思うことがあったので、やはりみんな同じことを感じているのかと、このごろの世の中のイメージの変化を再確認させられた。
その記事の内容というのが、ナショナルブランドの凋落、消費者の物への捉え方の変化があり、ナショナルブランドではなくとも、価格相応な物ならば、無名ブランドでも喜んで買ってもらえるというものである。
一方で、付け加えなければならないのは、世界的にナショナルブランド、無名ブランドともに、物あまりがすごいということである。私自身月に1回から2回海外に行き、スニーカーマーケット問わずいろいろな市場を回っているが、物があふれかえっている。物質的な満足感が、ある程度の先進国では行き渡っているのではないだろうか?
脇にそれるが、私の判断の仕方はいたって簡単である。その国の小売店の水の売り場に比例していると思われる。GNPの高い国に行けば行くほど水の売り場が広くなるような気がする。逆にGNPの低い国(場所)では、甘い飲み物が多いような感じだ。同じように若い国の食べ物は、味が塩辛い。
今までなら、売れ残るような物ではない商品が、海外、地方のショップに行くと余っていたりする。すなわち、売れないのである。そのことに多くの人は気がついているにもかかわらず、過去を繰り返すのである。世界の情報の流れ、世界の過去と現代においての相対的な地理的な小ささが目立ってくると、一度世界がフラット化するまで、先進国での物質的な消費に関する成長はないのではないだろうか?と思ってしまう。そのことが顕著にわかるのは、お金を商品とした投資が不景気の中でも進歩している。
先日、韓国に行って器をみてきた。ソウルよりバスで、1時間10分ほどのイチョン(利川)という所だ。やはり物が余っている。私が感じいったのは海剛青磁という所だが、その器のゆがみ具会がとてもいい。私が今使っているのは、隠崎隆一の湯のみであるのだが、好きな物が、安くかえるのはありがたい。しかし、世の中“歪んで”いる。それも器の“歪み”とは違った物である。
悲しい気持ちになるが、何もできない自分がある。私は無能である。それがわかっただけでも“世の中の物余り現象”に感謝する。
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