また、哲学的命題“生きるために働く”という行動をともなった人の生活があったとしよう。私の場合は、スニーカーを売るということである。その“売る”という最終の型に至るまでに、多くのプロセスを私は踏むことになる。まずは、売るためには商品を買わなければならない。買うためには、その商品を知らなければならない。その商品のデザインとともに市場のトレンドなどを含め、すべてのことを知ることはできないのはわかっているのだが、それでもなるべく多くのことを“知る”ために、いろいろなことをする。人と会うこともその一つである。
人と会うことは、面白いことであると同時に、一つ間違えると、“苦痛”になる。特に話の面白くない人との時間は、拷問のようである。話をするとは、なんであろうか?と思ってしまう。自己満足のため?それとも時間をつぶすため。そう早く死が訪れるのを待つ?私の人生はつまらない?私は、無口になってしまう。無口になってもスニーカーは売れるものなのである。
この文章は面白くない。なぜ?私に才能がないからだ。しかし、訓練によって、よりよいものになっていくはずだ。それは、私の扱う、手の届く範囲のスニーカー市場が、これからもうまくいくことと似ている。なぜならば、私は、想像することができるからだ。
要は、こうである。もっと時間をかけろ。もっとも、変化させないといけにことが多すぎるのだが。深く沈む。そこには何もないかもしれないが、何もないから笑いがある。ふと手にしたと思ったものが、また、手から離れた。そうなのである。今の私には、才能がない。笑うしかない。
スニーカーを売るために、文章を書く。それとも生きるため。今日も笑える一日であろう。
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