ゆきゆきて神軍という映画がある。第二次大戦の終わりにかけての、戦地での日本兵の行動、日本兵が生き残るために、日本兵を殺し、その肉を食べたというルポルタージュである。嫌なことだからといって‘知らぬ存ぜぬとはいわせません’という主人公が、戦時下での当時の上層部の兵士であった人々に、言語、暴力を含めて、その闇を開こうとするのである。そのなかで、私は主人公のヒロイズムが鼻についた。
人は生きるために生きている。哲学的であるが故に答えなどはないのであろう。生物学的にいうのならば、ダーウィン、ダーキン的にいうと、“子孫を残すために”ということになるのであろう。しかし、宇宙的にいうと“?”ということになる。宇宙の中での生物の存在の意味がこれからも、明らかにならないのではないだろうか? 何せ、宇宙がわからないのであるから。
一方で、子供が生まれ、成長するにしたがって、かわいいものである。自分の生きる意味、生きている意味(理由)は、わからないが、私は生きて、子供の成長をみてみたいと思う。消して、人の肉を食べたい、とは思わないが、“生きるために”究極の状況になったならば、私も人の肉を食べるのではないだろうか? 私は、自己中心的な、利己的な人間である。
人は、もしくは日本人は、“いき”というものを愛する。(九鬼周造の“いきの構造”に詳しい。)それは、わたしたちの生活と“いき”というものが常に平行線を表して、交わることがないためではないだろうか? 人の生活とは、表と裏、白と黒で表せられないのである。(九鬼の例でいうと、光琳の絵に似ているのであろう)生活する中での“正しいこと”とは何であるのか? その中で人々の価値観の違い、生活環境の違い、その他により物事の解釈とはことなってくる。そこには、ヒロイズムは存在せず、方丈記の中での鴨のような感じしかしないのではないだろうか?
限られた時間の中で、書いている。もっと訓練が必要である。私が生きるために、生きる意味を認めるためにも、私には“空”が必要だ。そこには、すべてを飲み込む“空”がある。
空を見上げて今日もがんばろう。
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