ゴールデンウィークを前にして、まじめにスニーカーと取り組んでいる。すべてのことが、私の周りでは、スニーカーとして、当たり前のように回っている。以下のように。
4月25日"動的平衡"(福岡伸一 著)を読む。
ローレンス、日高氏の生物学に基本的には通じる論であるが、そこに現代という時代とその可能性(不可能性)を混ぜる。その中で、動物(人類ももちろん含め)の生命には、どんな最先端な技術が生まれようと、時間(動物は老いる)を逃れられないと著者は不定的(肯定的?)に述べている。[死ぬのは良くないと思うのか、死ぬから良いと思うのかは人によって、その時々によって異なってくる]
そこでスニーカー。
スニーカーには"静的平衡 -他者的視点における-"が存在する。どういう意味かというと、スニーカーのテイストは他者の視点をフィルターにした自己内での静(心)的な移り変わりがあり、その平衡がその時(時間)の流れの中で、売れ筋を決めているのである。今の売れ筋はHigh Cutのものである。
4月26日"世界はうつくしいと"(長田弘 著)を読む。
長田氏の詩、散文を"アメリカの原風景61(?)"をアメリカ仕入れの時に読んだことを思い出す。また飯島氏の"アメリカ"をも想う。いろいろな国よりスニーカーを仕入れる人はいるが、やはりアメリカは別格である。空気の"かわき"と空の高さは、スニーカー文化の為にあるのでは?と思ってしまう。
スニーカー業をしているが故の思いで。
4月27日"くるみ割り人形"の前に"Rosas"というダンスビデオを見る。コンテンポラリー、人体の可能性。エロス、リズムを小刻みに見えるが、その外見的なスタイルは、まさしくTroupe的なスタイルである。現代的なものである。私がおいてまた何かをもう少し自分自身にやさしくすると、"私の時間の中で取り入れられなかった内外"というものを理解できたような感。
そして本日(4/28)、朝からスタバにてこのブログを書いている。書くことを訓練することは、日々スニーカーを商売として生きることと同じである。まじめにやろうと思うのだが、まだまだ自分に、文章もミダレ、才能のなきも感じる。
朝、太陽がまぶしい。
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