日頃から、日本、東京は住みにくいと感じている。田舎者の私は、高松で生まれ、東京、静岡、長崎、アメリカ、そして東京と生活の拠点を変えて、(ただ生活の環境が少し変わっただけなのだが、思考的なものは大きく変わったような気がする。)智恵子抄のようなもの。遠き遥かの空蒼 東の都沈む雲の間 感覚で生きる私は、何か私達を覆うもの、それは現代アートの中に見える色彩と反対なものを探して、生活をしていきたい願望。
アメリカにそれがあるのか?ないのではないだろうか?しかし、商売ベースで見ると、日本人は倭人として海外に出て行かなければならない所まで、追い込まれているのではないだろうか?(この閉塞感はどこからくるのであろうか?)世の中にはゆとり教育世代が社会人になり、ゆとり度と平行して“人生のゆとり度”を失っていく。彼らはどこにいくのであろうか?ケイラックの“中国行きのボート”なのか?やはり“On the Road” 偉大であるのか?
常日頃、私は、これからは、海外に出て行かなければ、会社がうまくいかなくなると弊社のスタッフには言っている。しかし、私の周りの人は、私の意見をどこまで本当か計りかねる。私は、“オオカミ男である”野生で生きるオオカミに育てられた人は、人には戻れない。私も噓ばかりつくので、“オオカミ男から人にはなれない”ベム、ベラ、ベロ、“早く人間になりたい”しかし、人間になったからと言って本当に幸せなのかわからない。脳とは何なのか?(厳密には人の脳とは)
しかし、まずは自分が言ったことは守らなければいけないと、自分の拠点をと“マンハッタンにCONDOを買った”個人では一番買い物である。まずは、ガキに地球人になってもらう。そのあとに私は、惑星ソラリスになろう。(タルコフスキーの映画参照)世の中のコアになるには何が必要なのか?努力?それとも考えないこと?その個体の中にコアが存在しており、“それは生きて死ぬ”と言った単純なものかもしれない。オオカミ男は人になれるのか?
物事はもっと単純なものである。わたしは、なにも考えずにニューヨークに住みたいと思うし、日本、東京は住み難しおもう。海外に行くと(月に2回ぐらいはいくのか)、人種は関係ないと思う。(ただ私が本当のピンチに遭遇していないだけなのだと思うのだが)人は人で“個”として存在しているだけである。本当は私は、ヘーゲル的な成長をするのか検証しなえければいけないのだろうが、そこまでやると今読んでいる“堕ちてゆく男”が読めないのでやめておく。墮ちるにもいろいろあるのである。ガキが空を見ている。“異常なし”そんな世の中にはしたくない。
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