小さい頃から、基地ごっこをするのが大好きであった。宇宙の地球の日本の小さな家の中の机の下をいつも基地にして遊んでいた。今でも基地は大切な人生のアンカーである。私のいる場所はどこが良いのか?常にそんなことを考えながら、生きている。もちろん、住めば都であり、今、住んでいる場所は申し分ない。まさしくアンカーとしての役割を補っている。部屋は汚く、しかし、どこに何が存在するのかわかる私には申し分ない(主に本である)。そのうえ、車が運転できない(免許は持っている)私は、公共機関が揃っており、どこに行くにも不便がない場所に満足もしている。
私は、四国で産まれた。三島由紀夫は産まれたときの産湯を覚えていたそうである。だが、私は普通の人間であり、産まれた記憶も曖昧で、四国の高松のことを覚えている訳がない。(どうであろうか普通であると思うのだが)先日のことも忘れる。(これも普通)自分が何をやっているのかも忘れることがある。自分が何なのかも曖昧。そして私は、ニューヨークに来ている。
まずは、ニューヨークに住む所を見つけようと来ている。(もちろん日本で仕事をしているので、すぐには移り住むことができないが)日本の閉塞感から逃れるのか、それともアメリカの閉塞感を感じるのか?そんな感じを感じる自分を見つめ直し、ニューヨークに家を買おうと思っている。エドワード・ジョーンズの“The Known World”を読んでいる。すべてが流れているのだが、そんな自分の後ろで騒ぐガキが、生きる場所としてはとてもすばらしいのではないかと思う。
本日は、MoMAにゲームプランなる展示を見に行ってみた。すべてがゲーム?そこにはナッシュの均衡は存在しないのである。
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