ポール・オースターも年をやはり年をとる。やはりかつてのように読みやすい、夢のような物語から、体の中に塵が(ピンチョンの指摘する垢)体の中に住み着きその塵ともつかないものを処理しないと前に進めなくなる、ジレンマ、もしくは生活の成熟、やはり年をとるのである。小説の内容を話すのは、苦手である。そこには、わたしという第三者が存在しており、その私は、本当の私であるのか?何が本当で何が偽物で、私は誰?どこにいるのか?なぜか夕焼け小焼けの赤とんぼが、恐ろしいと思う日本語で話す自分を感じるのである。
小説を読み今のアメリカを知る。そこには、スニーカー、靴の話題は出てこないのであるが、同性愛、薬、人々の日常の繋がり、家族のあり方、考え方、HOW TO本と同じである。なかなか心理をつくことはできないが、文化、その世の中の作る価値観、の中で生きる私達は、袖をふりふり、それに従わなければならないのである。“長いものには巻かれろ”権力がなくとも多くの人の“民意”は誰に多くの場合、世の中を正しい方向に向かわせると祈りたい。“はだしのゲン”のようにはなりたくないものである。そんなに簡単ではないが。
意識の統一、知識の共有、それらは他者が存在足なければ存在しない命題である。自己と他者の境界と、自己と自己との境界、その自己(自己と自己の境界から生まれる自己)とその自己の境界、と限りなく続く自己増殖、それは鉄男?いや彼の自己増殖はフロイト的?と母親の愛に飢えた私達の叫び“おかーさん”零戦のパイロットは叫ぶのだろうか?島尾の潜水艦だって。なぜかそこには、甘いたらちねのにおいが、万葉集の時代から存在する日本語に私達は、甘い汁を求めているのである。
ポール・オースターを読んでこんなことを考えていた訳でもないのであるが、多分少しがっかりしていた。本とはそんなものである。進め。進め。いや、そこどけそこどけ、一茶の方がかわいらしい。
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