言葉というものは、曖昧なものである。ここの人それぞれにおいてその言葉、一つの意味が微妙に違うからである。例えばこの“常識”という言葉。私の“常識”が、他の人の“常識”にでは無くなってしまい、逆に他の人の“常識”が私の常識ではない。共同幻想(吉本隆明)ではないが、言葉には幻想が付きまとう。常に言葉とは使う人により、意味が微妙に違ってくるのである。
私が仕事において“常識”であると思う“単語”を使う。しかし、私が気付くのは多くの私と一緒に仕事をしている人においては、その“言葉”が常識ではないのである。言葉が常識ではないので、私の“行動”もやはり常識は無くなってしまうのである。(人は言葉を理解し多くの場合行動に移す)これは問題であるのだが、どうすることもできない。何せ常識のレベルは日々の積み重ねでしかないのであるから。
本日読んでいた、日経ヴェリアスの藤巻氏のコラムの意見には“常識”があるように思うのだが、世界の経済、日本の円相場は、常識と違ったように短期的に動くのである。(短期的は私の考え)いつかどこかで日本がデフォルト。恐ろしや、恐ろしや。夏が過ぎ去り秋のような。何かが違う?“常識”が違うのである。いつまでもスノブでいたい
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