先日、三井記念美術館で行われている“奈良の古寺と仏像”展に行ってきた、作品の点数はそれほど多くはなく、しかし、いろいろなお寺の仏像が、簡単に一つのところで観れて、同時にお寺では観ることが難しい、仏像の裏、背中を見られることがとてもありがたい。
世の中、仏像ブームである。世の中が不安定になり人々は、浄土、阿弥陀信仰を求める。どうでも世の中いいとは言わないが、人々が“世の中の風潮がくらい”“未来が想像できない”時に、私達は、仏様、宗教に救いを求める。この仏像ブームはそういったものの一つではないのだろうか?宗教の広がりとは、人の弱みに付け込む、その穴の大きさに比例している。そんなことを言いつつも私自身何か宗教を信じるところもある。どの宗教とは言えないが、宇宙の不思議、地球の不思議、生命の不思議には魅力がある。
奈良のお寺のいくつかの仏像が出展されていた。長谷寺、室生寺、当麻寺、法隆寺、元興寺、などなど。私は多くの寺にすでに行ったことがあり、一度は見たことの仏像が多く展示させてあった。その中の一つ、般若寺の展示品。今でも覚えている。一人で、8時半頃般若寺に行き、境内を一周した、花の美しいところであり、何人かのカメラを抱えた人が、寺と花を写していた。私は、特別拝観、たぶん100円だと思う、を見た。仏像ではなくおばさんの話しを30分以上聞いた。“般若寺は奈良と京都のとおり道にあり、戦乱が多く、だだだだだだと。”なぜおばさんが私に話しかけてきて、何を言いたかったんのか?はわからないが、おばさんの付けていた、タオルばかり思い出す。
室生寺には、親父と行った、家族とも行った。山の中のバスがほとんどこないところで親父とそば食べ、12神将をみた。山を上がった。と多くの思い出は、そこに行って感じたこと。場の雰囲気、仏様の住むところ。人の生と死を繋ぐ場所。
ランボーはアフリカで象牙を買い付けては輸出していた。そして商売を考え死んでいった。そこにも場の気があり、神の住むところがあったのであろう。
人の生と死とは?と考えると、ゴーギャンが。こうなってくると、どこまでも進んでいく思考の螺旋をどのようにやめるべきか?“そう“このごろ涼しくなってきた。風をひかないように。体調管理を。しかし、本日も暑い。
コメント