会社とは生きている。もちろん生命体として生きているのではなく、会社という枠の中に生きる、生活する、活動する人々の集合体として生きているのである。“その中で私の存在は、役に立っているのだろうか?”と、このごろつくづく思うのである。なぜならば、私は商売には向いていない人間であるからだ。そして、私の商売の仕方は”ルールがない”のが”ルール”であるから。
スニーカー業界で面白い人は今のところいない。私は、クラッシック音楽ならば、カラヤンよりもフルトベングラーを好む。朝比奈でもいい。その中に何か意味、哲学、至高なものがないと認めないかなり頭の固い人間である。頭が固いだけならばまだいいが、あまりにも面白くない人間とは(馬鹿な人間)話したくないだけでなく、馬鹿にしてしまう。長くつきあっていて成長のない人とは話したくもなくなる。もちろん商売する上では問題なのであるが、それが僕である。(これも私のルールである。いくら地位のある人でも馬鹿はばかある。)
僕は馬鹿である。常にそう思っている。このごろ40をすぎてほんとに死んだ方がいいと思うようになった。いや言い方を変えると私が生きていても死んでいても何も変わらないと考えるようになった。そういった意味で私は他の人間よりも“賢い”のである。しかし、一方で死ぬのが恐ろしいので死ねないだけだ。何とも馬鹿である。(私のルールに則れば、私は私自身馬鹿にしている)
そんな馬鹿は金儲けだけでは世の中に満足しないのである。(ルールのない商売は、ルールのない行動を起こしてしまう)そして組織で商売をすることに疑問を感じる。どのような疑問かというと“私と一緒に仕事をしている人たちは仕事(人生)に満足しているのだろうか?もちろん満足していないだろう。(すべてを満足できる人などいない。知っているが、その満足できない理由を理解している人はなかなかいないのである。)私は、思いつきだけで仕事をしているのである。そんな人間は、人に幸せを与えることはできない。などと考えてしまう。
商売とは努力である、しかし、いくら努力しても伸びない才能がある。その人に期待しても、暗くさせるだけである。それを知っていて、文句を言う、そして、思いつきがお金をつくるのである。その思いつきは積み重ねでしかわからない。努力である。しかし、努力では補えないものがある。だから果たしはさらに努力する。こうなってくると人生どうでもよくなる。それは自分の生き方を否定しなければならないという果てしない螺旋の中に入っていくのである。そこに哲学、宗教があり、読み継がれる物語があるのである。その馬鹿さ加減においては、私は会社に存在する必要はないのである。
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