マンキューが述べた?(実際には聞いたわけではない)“我が「経済学書」とフリードマンの「資本主義と自由」は読むべき経済書である”が本当かどうかは別にしても読むべきなのである。なぜならば、本の内容、思想の流れが多くの人々に影響を与えているからである。もちろんフリードマンも多くの人々より(特にハイエク)影響をうけ、その思想の発展段階による思想を通し、人々に、影響を与えているというのであるが、その思想の発展(人々の進歩)、そして我が人生の存在を今回は考えてみたい。
資本主義と自由という思想の発展
自由という概念を多くの人は大切であると思うのではないだろうか?
私自身は、自由というものが無い世界には耐えることができないだろう。
考えてみよう。人に行き先を決められるのである。どこにいくにも人に
許可を取るのである。私自身の自由な意思が存在しない世界とは私の存在の意味を私が考えることさえも制限するのであろう。
しかし、私たちの自由という概念がはじめから存在したのではなく、時代を通じて初めて人々に伝播したのである。その思想の変化を経済を通して述べたのが、フリードマンであり、その経済が政治体制、強いて言えば、人々の行動(思想)に影響を与え続け続けるというのである。
そこでフリードマンの論点の1つである“常に進歩できる環境を創造できるのが自由”であるということである。すなわち、今の自由が未来の自由をよりいっそう自由にするのである。そこには経済政治といったものを超えた哲学的な物が存在するのである。しかし、その自由を獲得するには努力が必要であり、その努力の中での曖昧さが、唯一自由の存在を認めることができるのである。しいて言えば私が我の存在を考えるうえで大切なのである。
我が人生の存在
努力の中での我が存在のあいまいさを認めることを、私は素直に認められない。なぜならば、我が努力を私は本当の努力と認めてよいのかと悩むからである。その1つの例が私は多くの人々に負っている。それは、自分のできない(努力していない)ことにかこつけて、他の人に我が努力を押し付けているのである。そこにはあいまいさを許す空間は存在しない。しかし、(ここからは明るく楽しく)
あまり難しく考えてもしょうがない。私は“人に負う”ことに努力をしよう。そこには我が存在したという記憶が残るのだから。それは、私が他者に対する存在を私の記憶にどめるのを認めることが私自身、認識していると確認することができるのだから。許される我が“人生のあいまいさ”であろう。
文章自体に対してあいまいさを許すことができる空間が存在しないのを認める。そこが、スニーカーという商売をする私の限界なのかもしれない。だが、その中での人間関係は良き思い出ばかりである。そこに我が存在のあいまいさを許してくれる人がいることに私は感謝している。
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