おおくの人が経験を積み重ね、学習をする。“それはやって良いこと”そして、“やってはいけないこと”の経験を積み重ね、その時々の状況によりその時々の判断をするのである。今の時代(2012年)には当然であったことでも、かつては当然ではなく、かつては(おおくの時代が存在し、今まで延べ何人の人が誕生し、死んだのだろう)当然のことであったことが、今の時代には当然ではない。世の中は動いているのである。(それなのですべての人は死に近づいているのである)その進化、もしくは退化したものが“現実”であり、その現実を判断するのもやはり、その時代の人の評価でしかないので進化したのか退化したのかわからない。(死の捉え方、生の捉え方、その関わりは人によりとらえ方が異なるのである)ヘーゲル的であり、資本主義的なのかもしれない。(チャリンチャリンと鐘が鳴る。ヘミングウェイではない。)フクヤマの“歴史の終わり”には当てはまるのであろう。その状況で、人は活きているのであり(もしくは死んでいる)、時間とは何なのか?と常に私達には問いかけが存在するのである。
その中で、経験とは一度のものであり、判断とはその時、その時、一つずつ積み重なったものである。(ダイエーに行き私のガキは人生をください。宿題が問題なくできる脳みそください。挙げ句の果てに宿題を出さない先生ください)積み重なる経験は、その人の判断をサポートし、何かの役に立つときと立たないときがあるのである。(現実はそんなに堅苦しいものでもなく)まず、数字のサポート、もしくは数字の現実が存在するときには、私たちはその数字を覆すことはできず、ましても“バカヤロー”などと叫ぶこともできない。(時間が無限ならすべてを積み重ねることができるのだが、時間は区切られている。)数字との戦いは商売をしているときには大切であり、それが現実でしかないのである。(マンキュウも経済は有利な選択だと)それを判断するのは自分。難しい。しかし、自分の経験を今の私は、そのように表すしか方法がなく、短気は損気となるのだが、どうしようも止めることができない。誰に不平言う訳ではないのだが、自分の気持ちがどこにいくのか、自分でもわからない。(字を書いているのは確かであるが、この文字の言語的確証制については保証できない。)
そんなときには、私は仏像にお辞儀をする。思想、宗教関係なく頭を下げるのである。自分の体が曲がっているのがわかるのである(普通は横にである。)それは自分の体、それとも心が曲がっているのか。夏目先生。それをたださなければならない。仏像に宗教は、私の中ではないのだが、私の中に存在する中心を表すには、仏様の顔が必要なのかもしれない。だから寺に行き、頭を下げるのである。どん欲になれ。そして無心になれ。世の中は、捨てたものではない。自分に厳しく、思想を磨け。
昨日、月を見ていると月を磨いている怪物にあった。私は聞いたのである。何をしているのですか?と。怪物は笑っていった。あなたの顔も磨こうか?出直して謙虚に商売をやっていこう。愚痴馬鹿入り。そうだ私は、馬鹿だった。
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