少しまじめに活きようと思う。まずは、金儲けの考えからはなれなければならない。音楽が一番だ。今は、モーツアルトのピアノ協奏曲の20番を聴いている。このごろ読んでいる本は、マルクスの“資本論”だ。しかし、マルクスの資本論は既に世の中から、遅れている。唯一認められるのは、彼の弁証論がヘーゲルの弁証論よりも時代の中、時間の中、それはノスタルジアを生む世の中の雰囲気に適しているところである。私が書いているこの文章を理解している人は、いないだろう。いないので自分で理解するしか方法が存在しない。私は誰なのであろうか?なぜ活きているのであろうか?なぜ金儲けをしているのであろうか?すべてが、暇な時間つぶしに思えてくる。
そこの君。何をしているのですか?なぜそんな顔をしているのですか?面白いのですか?悲しいのですか?なぜスニーカーが好きなのですか?飽きませんか?なぜモーツアルトの曲は、悲しいのですか?それと同時に楽しいのですか?楽しい中に悲しさが存在するのですか?それこそヘーゲルの弁証法なのですか?その中に時間は入っているのですか?人は成長するものですか?それとも退化するものですか?この曲はみんな知っているのではないでしょうか?づでも良いのではないでしょうか?すべてが暇つぶしなのですから。
浄瑠璃寺の仏像は何を見ているのでしょうか?何を考えているのでしょうか?なぜ人は京都ばかりに行くのでしょうか?奈良ならどこが良いのでしょうか?新薬師寺の十二神将は本当にあの様に立っていたのでしょうか?なぜ古都巡礼での中の仏像は、地面に転がっているのでしょうか?人の心が豊かになったから、お寺に飾られているのでしょうか?室生寺は?(十二神将がある)ほんとに君は私の言っていることがわかっているのでしょうか?ならば、私はヘーゲルがわかっているのでしょうか?フクヤマの言っていることが理解しているのでしょうか?(歴史の終わり)すべての物語には終わりと始まりがあるのでしょうか?それは、誰が話しているのでしょうか?君ですか?僕ですか?
愛を語ろうとする酔っぱらいは本当に愛を理解しているのでしょうか?酒はなにが良いですか?体に悪いですよ。しかし君の心に宿りくる愛は本当に君を愛していますか?僕は僕を愛していますか?時間の中で愛しているのですか?それとも時間など関係なく愛しているのですか?凝固する愛は何色に輝いているのですか?それとも流れです愛なのですか?(少しオカルトぽくなってきました)
少しまじめに活きようなどと思うとなかなか終わらなくなる。だからと言って不真面目に活きようとも思わない。人生難しい。
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