“ラピスラズリ”を読んで思うことだが、村上春樹の“1Q84”と似ているということだ。何が似ているのか?もちろん、違う作家の物語なので、文体は似ていない。物語の背景も違う。しかし、そこに漂う人の意識の底にある、明るさ、あきらめ、社会制と個人、組織、その中の本当の自分、他者の存在に視点を当てる方法がとても似ている。もしかしたら、村上春樹は、山尾悠子のファンなのではないだろうか?
私の原点は、レヴィ・ストロースにあると言っていい。特に、人に優しいのは(ほんとなのだろうか?)タロ芋を交換する原住民のポトラッチをまねしているのである。マルクスが提唱する、今の共産主義と線を引く、原共産主義、そしてそれを飲み込むパリに、ルイマルの映画と、家庭の幸せ。すべてが、神話の中に存在する、人の原風景とホメロス、目を開けろ(ホメロスとは“盲人”
の意味)そして、語らずして歌え(島田雅彦)、それはマーラーの子守唄の中に存在するのか?それともバッハの中にも。
人は、ここ3000年の間に少しの変化を遂げてきたのだが、技術の変化とは別に“人とは?自分とは?”の問いには答えられていない。それほど遺伝子は変わっていないのではないだろうか?(ダーウィンを信じる?それともダーキンを?もちろん2人を)すべてが、レディーメイドなのでは?ここまでが、山尾悠子と村上春樹の似ているところの説明。
これを考える時間は、マッハなのか?それとも光年なのであろうか?それとも私達の心、思考はそれ以上に進んでいくのであろうか?すべてを説明するのは難しいし、説明する必要もない。しかし、心の変化の理解は、商売に大きく影響をする。他者を見るには“行動経済学”で十分かもしれないが、自分を見るならば、新たな座標が必要である。
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