山尾悠子の“ラピスラズリ”をよんでいる。この本、作者ともに紀伊国屋で平積みになっていたので買ったのだが。果てまた、この本が、この作家がどのような人であり、内容であるかなども理解せず買ったのである。それは、このごろの私としては珍しい行為である。既に読みたい本、読まなければやらない本が心の中に山のようにラインアップされている。やらなければ、ならないことも多い。特に、数学、ゲームの理論、プログラムを覚えようとしている人間には、時間が足りない。また、時間があっても、体力が足りない。いや意思が足りない。と足りない物だらけ。そのせいもあり、このごろは、興味のある本を順序よく?読んでいるのである。
この山尾悠子の本の内容は、わかりにくい。いや、幻想文学とは、その世界に入れないと理解するのがとても難しい。広い意味で、文学とはフィクションなのでありその世界は現実と大きく違い、それだから面白いのだが。現実の世の中で、日々、金勘定ばかりやっている人間には、その世界に入るのがとても難しいのである。それは、果てまた、自分の能力の限界なのである。
高校のときに読む、三島にバタイユ、マゾ、ドグラマグラに、果てや家畜人ヤフーもすべてその世界に入れた私は、その記憶を辿りつつ、この世を生きるのである。この世を理解しようとするのであるが、その思考生の彼方にある物が、金儲けなのであろうか?果てや、幻想と仮したこの世の生なのではないだろうか?人は死に人は生きる。死があるから生があり、生があるからしがある。そこの境目は何であるのか?こんなことを高校のときにも思っていたのである。そして今でも。私が愛した気持ちはどこに行くのか?この気持ちは、存在するのか?存在するのなら、私が死んだあとには、どこにいくのか?そんなことばかり考えながら、生きているのである。
昨日の日記。ガキが算数をできずに泣いていた。そのガキが、私は好きで好きでたまらない。僕の涙はどこにいくのか?いつまでも“I love you” と言える人間になりたいと思っている。
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