今日から、ラスベガスにUBIQの展示会に来ている。(まだ、サンフランシスコの空港で接続待ち)何が面白いというと、英語もしゃべれない人間が、ラスベガスに行ってスニーカーの注文をとろうとすることが、面白い。言葉は、あくまでも言葉であり、それ以上の物でもそれ以下の物でもない。しかし、その言葉と言葉、語彙と語彙の間には、感情が含まれ、その機微が商売につながるのである。その言葉が話せなくて。
とりあえず、私は楽しい。多分多くの注文が入るだろう。なぜならば、私達のやっていることは、あまりにも馬鹿げているから。その馬鹿さ加減は、多くのアメリカの人、アジアの人に、そして日本人にも理解されていないのではないだろうか。(私のところには、とうとうオカルト的なメールも来る様になった。笑えないが)まじめと馬鹿。そこの狭間とは何であろうか?そして本当にそこには、狭間が存在するのであろうか?
生と死に狭間が存在しない様に、人間の行動、そこには、話す(言語的、語彙的)性格(まじめ、不真面目、バカ、天才)走る、歩く、よちよち歩く、しらふ、酔っぱらう、などの中にはこれと言って境目は、ないのではなかろうか?あろうか?もし、ゴッホが狂っていようと、狂ってなかろうと、ゴッホの絵は不気味であり、セザンヌのリンゴは、机の上に落ちずに残っている。(本当は落ちなければいけない)とりあえず、馬鹿も続けば、まじめになり。まじめも一度なら、馬鹿になり得る。そこには、習慣の中の認識の連続態しかないのである。
私は、生きている。(もしかしたら、あと少しで死ぬかもしれないが)死んでも生きている。(仏教的になってきた)とりあえず、注文が多く取れても、お金が回らないので、ぼちぼち売ろうと考えている。とりあえず。
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