わからないことだらけの世の中で、私が今、理解しないといけないことは、もう少し基本的なこと、古典と呼ばれるもの、そして多くの人が読んでおいていいと進めるもの、レベラルアーツの課題のような本である。先日、ソシュールの“一般言語講義”を読みわからなかった。わかったような気がするが、どこに論点があり、それがどのような構造主義に影響を与えたのか、その筋道がわからない。それで、今度は“沈黙するソシュール”なる本を読んでいる。それでもやはり、難しい。私の頭がまだそれらの思想になれていないのである。なれるのには時間がかかる。その時間がかかることを“頭が悪い”いうのだろう。
しかし、一方で高校の“集合と論理”の数学の問題を解いている。これも多くの時間を割かなければ理解しがたい。世の中には、理解しがたいことが多くありすぎる。そして、理解したつもりでもそれらの考えをなかなか、世の中のことに応用することが出来ない。これは問題だ。(このことを“問題の垂れ流し”と呼ぶ)それは、今の日本の政治に当てはまるのではないだろうか?
4月2日号の東洋経済は、“国債暴落を回避せよ”という特集であった。私も近い将来、日本の長期金利は上がる(価値がなくなる)と思う。今、円安へ進んでいる。もちろんこの後何度か円高局面になるとは思うのだが、長期的には、円は売りである。外貨預金をしておくべきである。もし、84円が110円にこの先3年の間になれば、25%の含みがでる。(こんなおいしい利率のものはない)しかし、銀行に行く暇なくまだドル預金をしていない。(これも垂れ流しである)日本政府と同じである。
しかし、世の中は美しい季節になってきた。桜の花が美しい。あと何年桜の花を見れるのかわからないが、私は桜の判が大好きである。なぜなのだろう?安吾が好きだから?それとも私が日本人だから?それとも?これこそ、言語とは?ここでソシュールに戻ろうと思う。難しいから面白い。そう思わなければ、自殺するしか生きる道がないのではないだろう。集合的には、φなのであろう。
本当にこんな人生で良いのか?
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