国立近代美術館、最終日上村松園の展示をみていた。上村松園自体の絵画は、日本画であり、伝統的なそして古典から多くの構図、アイデアを取り入れた日本を代表する女性の作家であろう。彼女の描く女性は、美しすぎるのである。そこが問題である。
多くの明治、大正、昭和初期の女性は、世の中で男の陰に隠れた今とは違った社会(もしくは今でも同じか?)に住んでいたのであろう。男性社会の中で、もちろん絵画の世界でも男性中心であり、上村松園は苦労したのではないかと思う。(実際、結婚もせずに自分の理想とする絵を描いていたのである。)その女性が描く絵画とは、女性は美しくなくてはならないという枠の中に自分を入れなければならないのである。そして美しさが、妖艶になり恐ろしさまでもが、モデルの顔に現れるのである。
このごろ鬼平犯科帳のDVDが安く発売されている。1巻の第二話、本所、桜屋敷は、落ちぶれて何もできない女性の話しである。女の性を使い、かつての嫁ぎ先の人に復讐しようとする。(面白い、ぜひ見てもらいたい。)ここでも社会の中での女性の立ち位置を考えさせられる。社会の中で人は自分のジェンダーを無視して生活することはできないのだ。枠があるのだ。その枠は、果てしなく遠いときがあるのである。
上松の場合も同じなのであろう。女性であるが故に美しい女性しか描くことができない。枠である。それを見ていると絵がつくづく悲しく見えてくるのである。北斎の構図、国芳、絵巻の構図の美しさのみを描くのである。(彼らの錦絵、肉筆にはユーモアーを見ることができるのだが)ボーと考えていると,今読んでいる“種の起原”を思い出す。また詩人の高橋氏をのコメントを思う、本は忘れよう。私は馬鹿だ。二度目の読書である。
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