頭が悪いことは悲しいことである。しかし、頭がいいからといってすべてがうまくいくことではない。とは知りながら、やはり“頭が悪いことは悲しいことである”と思う。なぜそう思うのか?
先日、ジョン バースの“ストーリーを続けよう”という短編小説集を読んだ。その後に読んでいるのは、“素数に憑かれた人たち”である。共に共通するのは。数学が取り扱われていることである。ジョン バースの“金曜日の本”や“キマイラ”を読んだのはいつのことだったのだろう。千夜一夜物語について書かれたものをこの作家、ジョン バースは本当にまじめに考え文章にしているのを確認し、それこそ何か違うぞ。と思った僕を今でも上から見ることができる。(今日の朝散歩をしている時にもそれは確認できた。)どういうことかというと、私の中に特別に残っている記憶とは、私がそのことをしている時が、今でも私がそのことをしている時を、私としてではなく、もう一人の私として、今でもその時を見ることができるということなのである。
その、バースの本の中には、訳が分からない量子宇宙学のような網が張り巡らされているのである。話の内容は“愛である”それはそれは大人の愛である。しかし、それだけでは終わらないのがバースであり、その数学的な視点、発想を説明し、読者に取り入ろうなどとしないところが、果てまたバース的なのである。理解できない人は、彼にとっての他者であり、彼とはいつまでも気持ちを共有することができないのである。他者になれない他者。
同じように素数。リーマン予想の筋道を表そうとする“素数に憑かれた人たち”の内容も私にとっては厳しいものである。まず作者が一番最初に言っている。“この本の内容を理解できなければリーマン予想などは理解できない”まさしく私は理解できないのだろう。ゼーダ関数の自明でない点はすべて直線上に存在する。なんとなくわかる気もするがわからない気もする、私にはその程度の知恵しかない。悲しいかな。
そしていっそう悲しいのは、この問題に一生をかけてきた人が問題を解けずに死んでいったということである。彼らは一生をその解のないものに賭けれる忍耐と精神の強さ(時として弱さに変わる)を持ち死んでいく。その悲しさを考えると私の“知識がないことは悲しい”などと違う至高な“悲しさ”を感じえずにはいられない。私はそのような生き方に敬意いをもち、生きていきたいと思っている。少しでも私は自分の知識のなさを確認すべく努力すべきであると思っているのである。悲しみを至高に換えるために。
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