体調が悪い。体調が悪いので、気分も悪い。会社に行っても顔色が悪いので誰も話しかけてこない。家においても誰も話しかけづらそうにしている、しかし、私はというと日々同じことをするのをもつとうにしているので、4時半頃には、散歩に行き、5時半頃から新聞を読み始め、コンヒューターを開き、海外の人間と話、そしてどうでもよい本を読むのである。本当は、寝ていた方がいいのだが、なぜか体内時計がそうなっているようだ。
そんなときのは、進まない本を読むに限ると、“ウィトゲンシュタイン”(エイマー)と“論考”をぱらぱらと読みながら、眠気が襲ってくるのを待つのである。もちろん彼の有名な言葉“語りえないことについては人は沈黙せねばならない”とは美しい言葉である。しかし、その美しさに溺れる前に疑問が生まれてくると目が覚めてしまうのである。“論理”を中心に進めていく彼の哲学の“命題”には、言葉の限度、だからといってすべてを科学で証明できる、するという厳格な確実性という、人が予測できないものへの不安を解き明かしていないように思われる。
また、彼の視点を彼が見る、そのからをまた違う彼が見るという独我論的な意見にも果てしない地平線を歩く人類の答えになっていない様な気がする。その結果私達は、小さなこと(しかし大きなことかも?)を探求しなければならないのである。それは言語ゲームとなる恐れがあるのである。(私には、ウィトゲンシュタインの考えはスニーカー屋には大きく必要ないように思える)しかし、寝れないのである。
哲学とは死んでいるのかもしれないし、死んでいないのかもしれない。しかし、科学を学ぶと人(人類)の知っていることなどは宇宙の中では何も役に立たないのである。(もちろん私の考えも役に立たないのである。)それだからといって止まっているばかりではダメなのである。
と以上のような生活は、体の調子を回復させないのである。体調の悪い日は寝よう。今日も3時半に起きた。病気である。
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