“暗い日曜日”をダミアが歌ったのは、かれこれ100も前なのではないだろうか?男に逃げられた女は、日曜日に自殺する。なんて悲しいのだろう、人生愛に恵まれていた私は、高校生の時に人生を明るく華やいだものだと思っていた。しかし、42年も人生を重ねると先が見えてくる。人生とは暗いのだ。まさしく、マークトゥエインのようである。どうして不思議な少年は神の意志に逆らえなかったのだろうか?神だから?それとも彼が暗いから?
キリスト教の人生は、愛に満ちている。仏教には自然への融合があるが、愛というものを感じない。それはすでに世の中(自然)の中に存在しているものであるから。自然(宇宙)の中には人間(人類)ではどうにもできないことがある。(どうにもできないことだらけである。)そうすると、人生の意味を考えてくる。私は何なのか?どこに行くのか?まさしく、ゴーガンである。そこに愛を見いだせないと人生はつまらなくなると私は思う。
そんなに考えていてもどうしようもない猿は、ジャングルの中で幻覚症状を起こす木の実を食べる。人間の中でも薬を飲んで幻覚を、そして私の知っているガキは(30歳ぐらい)牢屋に入っている。(私は薬には興味がない)彼はまさしく時間を持て余した、猿なのである。とても明るい人生を歩んでいるのだろうと思っている。(周りの親は、後ろから鈍器で殴られたようにがっくりしているようではあるが)この世は、どうしようもない猿が支配をしているのである。
木の実を食べ自分を変える、まさしくワンピースである。ゴムゴムの木の実を食べた。まさしく人生が変わった。すべてが夢なのだ。何も変わってはいないのだ。現実とはそんなに簡単に変わるわけないし、理解することもできない。なぜならば、時間をコントロールできない人類は時間に束縛される。それは4次元のものでもなく、無なのである。ならば、無は夢に変わるのだろうか?どうでもよいことかもしれない。(どうでもよいことなのだろう)まさしく人生は、暗いのだから。
私は、馬鹿である。しかし、馬鹿であるのがわかっている馬鹿である。だからといってどうにもならないのはわかっているのだが、努力をしているふりをしている。まさしく現代人なのである。今井くんのグログに私のことが書いてあるが、私はどうしようもない人間であり、ケの部分だらけな実際何もやっていないボンクラなのである。遊び惚けているのである。やっているのは不条理、不合理にはたらかされている(私は願う 働いている)阿久津以下の人間の力によるものである。
暗さの中に私がいて、その暗さを私は楽しむ。死んだ蠅の死骸から目が離せず、先生に文句をいい、高校の国語の成績は2であった。今の生き方も死んでいない分2ぐらいだろう。なぜ、ラフマニノフを聞いているのだろうか?私は、知識には弱い。だから、知識を持っていない人を見下す。(話さないようにする。)しかし、知識を持っていたからとへりくだったりはしない。まさしく自分勝手なのだ。
世界の中心、宇宙の中心、中心を愛する私は、走り方が傾いている。まさしく歩くとは難しい。
コメント