努力を忘れた私は、"なぜこんなに悲しいのか?"と思い、日々努力をしようと汗をかけ!
祖母(ばーちゃん)が死んだ。もちろん一人で。90歳の人生を山口県の養老院で死んでいった。
この夏に山口に行き、会った。ばーちゃん似の私は、私のガキ2人を見て"かわいい"と言ったばーちゃんの目を見て、その目が次の会うのは、ばーちゃんの死。
ばーちゃんの人生とは何だったのだろうか?
世の中が慌ただしくなってきた。毎日鉄道では人身事故があり、自殺者が絶えない。新聞の3面には、殺人事件の記事がところ狭しと、載せられている。なぜこんな世の中になってしまったのだろうか。それとも世の中とは、過去よりこんなに不幸が多いものだったのか。
人とは"理想"と"現実"の狭間にて、常に揺れて生きているのである。パンドラの箱でいう"希望"とはどこから生まれてくるのであろうか。"現実"を見つめることは、ばーちゃんの死を想う。
レヴィ・ストロースの悲しい熱帯を読んだのは、高校生の時であろうか?構造主義(ism)を理解しようとしていた私にとって、共産主義を習ったのも(何となく理解できたことを今まで覚えられていること)この悲しい熱帯ではなかっただろうか。それが私の根本にあり、"変わらないもの"または"変える必要のないもの"である。それは、私の縁であり、限界点である。アー悲し。12月という月が悲しいのだろうか。太陽が低く朝が遅いからかもしれない。人生とは、悲しいのだが、一方で面白いのである。そう思いはするのだが、"なぜこんなに悲しいのか?"と思う。
祖母の骨の香りがする。私の手に付いた骨の香りは、祖母が"子孫"を残したことをはっきりと私に認めさせた。しっかりしよう。
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