死を経験したいなどと思う人はそんなに多くないのではないと思うし、そうであってほしいとも思う。しかし、一方で経験しなければわからないことも多々ある。 しかし、自分の死は悲しいが受け入れることができる、できないにしろ、どうすることもできないが、許すことができる。(もちろん私の気持ちがなくなるということが前提にて)しかし、他者の死(近くにいる人)についてはなかなか受け入れることができない。そんな現実をどのように自分自身処理しなければならないのか?それがこの頃の私の生きる意味である。
しばらく、ブログを書かない間に、いくつかのコメントをブログにもらった。ドマンのおじさんのことである。私自身たまたま入った喫茶店がドマンであり、馬鹿な、一方で天才な私と話してくれたのが、ドマンのおじさんである。それから、長い間、仲人までしてもらい、今でも熱く私を焦がすのが、ドマンのおじさんである。私がどのようになっても、今も昔も同じように接してくれるのがドマンのおじさんであり、何事にも代えがたいのがおじさんへの私自身の勝手な思いである。そう勝手な思いなのである。
私は、何ができるのだろう?そう何もできないのである。ただ思うだけ。ただ、思うだけ。おじさんが長く生きてくれることを。私とおじさんの接点は? そんなに多くはない。無いといってもいいのではないだろうか?年に何度か会うだけ。それでも長く生きてもらいたいと思う。おじさんの肝がんがなくなればと思う。なぜ?それがわからない。ただただ思うだけ。私にできるのはそれだけ。
おじさんと会った最後の日におじさんが私に言ったことは、元気になったらまた会おう。そう、また会おう。である。会うという経験と、思うという経験、どちらも大切である。どっちにしろ熱くなる。
そんなことを、たまに思いお店を回っている。本を読んでいる。海外に行っている。 餓鬼と遊んでいる。私は誰であるのか?何物でもない、私である。それなので、私は頑張る。ブログを書く。どうしようもない文章を書く。
コメントをいただいた方には、感謝している。ドマンの最終日に、私の餓鬼といったのですが、おじさんには会えず。それでもドマンの奥の絵(山の絵)と入口の一体壊れた、細長いにょろにょろのような焼き物。ドマンのにおいを嗅ぎつつ、私の餓鬼はドマンでしょん便をし、私は井の頭線に乗り渋谷に着いた。餓鬼があまりにもしょん便に行くので、糖が出ているのではなどと、そのしょん便を舐めてみた。しょっぱかったので、私は安心した。そんな私をおじさんは、愛してくれている。私にはわかる。なぜならば、私がおじさんを愛するから。
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