世界的な生物学もしくは進歩学というべき、ダーウィン以後の進化論は今のところ リチャード.ド−キンスのあらわす“利己的な遺伝子”を存続させる為に生命(生物)は存続するのである。という考えに大きく流れている。
そのドーキンスの遺伝子の継続の為の生命の存続には大いに感じるものがあるし、もっともな事だと思う。しかし、私は生物学者ではなく、スニーカー家である。(もしくは商業主義者)そうなってくると、このドーキンの考えから正しくともロマンを感じる事が少なくなってきてしまう。(いくつかの点にて、思考的ロマンを感じるのではあるが)
一方、ローレンツの進化の考えは“種”というものを存続させるためにという考えによっている。生命とは“種”を残す為にその存在があるのでという具合だ。もちろんこの考えは一昔の考えであるのだが。しかし、その考えにもとづく、彼のフィールドワークには、もしくはフィールドワークより映し出したその考えはとてつもなく生物のロマン、すなわち、私達の生きるということにわかりやすい理解を与えてくれる。(これは私が単にこの分野の専門家でもなく、部外者であるからであろう)
ソロモの指環では主に2つの事が言われている。
解発因 (リリーサー)
刷りこみ(imprinting)
これは調べてください。これはローレンツの大きなわくである。そしてそのフィールドワークが続くのである。以下がどのように、スニーカー学に影響を与えるのか、いくつか例を含め、考えてみたい。
コグマルガラスと犬
コグマルガラスは一度結婚すると一生その夫と妻ははぐむのだそうだ。(永遠にかわらぬ友)その愛の形が読む人にロマンを感じさせるし私自身そのように、人間(他者)との関係をつくれればいいと思う。
犬にはオオカミ犬とジャッカル犬がいるのだそうだ。オオカミ犬、一度その人との親密な関係を築くと、一生その人との関係にのみ重要性を認め、他者とは関係を築けないのである(忠誠は空想ならず)
そう、私はこの2つの例から私を、より理解する事が出来るのである。すなわち私にはこの親密な関係が、スニーカーを売っているだけの私においても言えるのである。それはなにかというと、そういった関係を私は他者に対して求めるのである。ジャッカル犬(例)の人はたまったものではないだろう。何せ私はそれらの人とコミュニケーションをとるのが難しい。これは私自身の限界であり可能性でもある。これは私の刷りこみなのであろうか?
アクアリウム
ひらたく言えば水槽である。その世界は生物のキンコウが保たれていれば、何をしなくともうまくいくのだそうだ。水草と生物のバランス。それは私的に言えば商売のスピード(規模)とスタッフの言う事が言えるのではないかと思われる。
私は自分でいうのはなんだが「商売はうまくない」これは私自身、15年以上仕事をして感じた事である。しかし他の人は「商売がうまい」とほめたりもしてくれる。しかし、私がアクアリウム的バランスを保つのは努力をするということだけである。そうすると困った時に感じる事がある。(私の場合目の中に宇宙を感じる)また夢を見る。(他者が私を励ます)といった具合だ。
すなわち、スニーカーを売るのは難しい。なにせ自分自身のバランスをスニーカーを売る前にとらなければならないのだから。
コグマルガラスの熱狂
これはもっと商売的である。コグマルガラスは鳴き声によりたのコグマルガラスの熱狂(影響)を与える事が出来るそうだ。これこそ科学の投資学である。なぜ人は、もしくは生物は熱狂するのであろうか?
スニーカーブーム、裏原ブームといろいろ、原宿もしくは日本にブームが広がったがそれは何なのだろうか?
何がそれを決めるのだろうか?(金融商売の熱狂はMの量によるのだろのか)そしていつそのブームは去るのだろうか?
上の2つはすでにブームが去った。いや死んだ。しかし私達は生き残っている。ナゼか?
最後の例
ローレンツは最後に「ある社会的動物がもつその種特有の遺伝的な衝動・仰制の体系と武装の体系とは、自然からひとまとめにして与えられたもものであって、慎重にえらばれた自律的な完全さをそなえている。すべての動物を武装してきた進化的な過程は、同時にまたその衝動と抑制を発達させてきた。なぜならば、ある動物の体の構造プランと、主に特有な行動様式の遂行プランとは、一つのものであるからだ」と思っている。
しかし唯一例外は人間。そう私はどこにいこうとしているのか?
笑顔とともに
私は社会的動物である。
そしてローレンツを読んだのだから、ロマンチックに生きてみたい。
すべてのものを愛したい。死さえも。そしてそれは私存在自体を。
それはまさしくローレンツのソロモンの指環に関して私の感じたいくつかの事である。音楽が流れる(シュトラウス)、笑顔でおどろう。
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