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二億六千万の書物
金文字で書かれた、13世紀のコーラン。そそられる。神の啓示の書。イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の、根は一緒である。それが何故、ここまで錯綜しなければならないのか。幻想は果てしがない。
ヨーロッパをさすらう異形の物語 上
ヨーロッパの中世の伝説、神話が述べられている。そして、やはり感じ入るのは、古代ギリシャ文明、キリスト教の影響が色濃くこれらの物語の中に含まれているのである。やはりヨーロッパを知るうえでは、基礎知識のレベルアップが不可欠である。(この本よりも阿部の中世史のほうが、情熱を感じ面白い)
近くで言うと、ナイキの名前の由来だ。ニケ(勝利の女神)よりきている。もし、ナイキが違う名前ならばどのようになっていたのであろうか?中世のヨーロッパ、日本においても名前はとても大切なものであった。だから、むやみに名前を名乗らなかった。今の世の中とは違ったのだ。ゲド戦記を読んだ人なら感じがわかるのではないかと思う。
スニーカーの歴史、靴の歴史。これこそは日本は海外から取り入れたものだ。そのときに走り方まで。などと考えると薩摩の武士がナンバ走法ですってんころりんしている過去の物語が目の前に浮かぶ。歴史は面白い。
戦後占領期 短編小説コレクション 1
日本人の小説は長編のものより短編のもの、中篇のものが幅をきかしているように感じる。かつては長編のものが多かったのだが。その中でこの戦後短編小説コレクションは、とても興味があり少しずつ読んでいる。
まずいろいろな短編を読んでいると自分の好みの変化に気がつく。たぶんかつての自分あらば、田村泰次郎の小説を好んだのではないだろうか?しかし、ガキができその親子の関係を自分の立場で考えると、八木の”母子鎮魂”に熱くなる自分を感じる。
一方で織田の”競馬”に人の無情さ、情けなさ、摂理を感じる。Chapterでスニーカーを売ることで多くの人と関わってきたし、今もかかわっている。すべてのものが風化する。私の心も風化する。その多くの人との関係を風化させないように、その瞬間を大切にする。今日も私は私なりに話す。大切に
白川 静 文字講話 II
白川静の文字講話の第六話ー十話までを読んだ。昔の人の意識を文字をとうし理解するということをおこなっているのだが、とてもためになるのと同時に、自分の学のなさを痛感する。まず漢字の知識のなさを痛感するし、それ以上に国語の力というものをつけなければならないといけないのだと思う。
まず原始社会の中では”占う”ことが大切であった。常に神様との対話が文字の中から見て取れる。私も神様を探している。青い鳥のように自分の近くにいるのかもしれないが、なかなかそれが目に見えない。Chapterには、神様がいる。スニーカーの神様は、スニーカーではなくそこで働く人であろう。
ここ数日考えさせられることがたくさんあったのだが、本日はハロウィン。聖人(Hallows)を祝う前夜祭(EVE)である。死者がよみがえる日でもある。。死者とも話してみたい日である。神様と対話ができるように、今日もいい日でありますように。
残された酒
飲みにいった帰りがけに酒をもらった。口に合うかどうかわからないけどといわれた。うれしかった。酒をもらうのは嫌いじゃない。その思いが酒を美味くさせるときもある。しかし奴はいっちまった。長年一緒に闘ってきた同志でもあった。残された酒。行き場所がない。飲んじまったら、あとはなにも残らない気もする。いつになるかわからないけど、しばらくは。人は、何か見えざる天の意思を感じるときがある。物事が繋がっていること。夢想は尽きない。冥福を祈ろう。
異空間
何かを待ちわびる人々。それは朝の光なのか、それとも。この空間は、ちょっと日常とずれた変わった場所である。それぞれ癖のあるエネルギーを放射していて、混沌とした空気が澱んでいる。その微妙なバランス。空間が歪んでいく。その日常性を失ったおかしな世界は、タイムマシーンでもあるかのように、朝になると人々を降ろし、また静かな日常の世界に戻っていった。それは、ぽっかりと開いた異次元への扉なのかもしれない。夢想は尽きない。
極真空手
新極真会の世界大会は、塚越孝行選手の優勝で幕を閉じた。極真空手は、様々な派に枝分かれして、もはや素人には訳が分からない。しかし、観ている者を熱くさせ、魂を揺さぶる何かを内包している格闘技だ。それが「空手家魂」と呼ばれるものなのかもしれない。世界化するならば、どうしてもスポーツに近づいていかなければならない。しかし日本の武道は、ほんらい道を極めるものであり、スポーツとは相容れないものを持っている世界である。ルールがその世界を規定し、凄みを失わせる原因にもなりうる。夢想は尽きない。
売れているものを探す
売れているものを探すことをかつては追い求めていたのだが、この頃はいろいろな人がこれが売れているよ、とメールで教えてくれるようになった。本当に情報社会のおかげで、すぐにこれらの情報が手に入る。例えば、スニーカーや靴に関して。ドラマの影響にて今年は、ブーツ、カラーはサンドベージュ。先はUチップ。これは、キムタク効果なるもの。
まだまだ世の中には売れているものがある。小さな子には恐竜だ。ちょっとおしゃれな若者には、ちょっと悪そうな時計。少しゴージャスに見える。また、本ならば村上春樹。おじさん、おばさんはちょっとした旅行ブーム。(新聞の下の欄には旅行の記事ばかり)バームクーヘンなどのスイーツもしかり。しかし、ブームは一時。まさしく商売は時間勝負。
この中で生きると本当に疲れる。しかし、面白い。芸術や学問にも流れがあり、商売だけではない。だが、人は普遍をもとめる。私もだ。宇宙の中心の思想はどこにあるのだろうか?などと思いこの頃涙もろくなった自分と対峙する。
漫画の中の企業買収
黄昏流星群の30巻が発売になりこの中の漫画の内容がやけに、スニーカー業界で現実に起こりそうな感じがして怖くなった。内容はこうだ。ナイキに思われる企業が、アシックスと思われるスニーカーが会社をM&Aするという内容だ。まさにありそうな感じなので、とても怖い。私が思うに、競技用のスニーカーは今のところアシックスにかなう企業はないのではないだろうか?特に長距離のスニーカーにおいては、アシックスの履き心地は、とてもやばいものがある。履き心地が他社と全然違う。
日経産業新聞にもアシックスのスニーカーつくりの記事が載っている。1980年からの三村氏の歴史が連載で載っている。これは商売というより職人だ。物作りの原点である、粘り強さや、ここの分析力。まさしく日本人の得意とするところなのだろう。商売と技術の進歩。どのように折り合いをつけるのかがこれからの課題であろう。
漫画であるが現実に起こりそうで侮れない。そんなところがまた日本の漫画文化をも支えているのであろう。
ジェロニモ
ものごとは、その思いによって顕現する。ジェロニモを眺める。これがはたして、ジェロニモなのかも私は知らない。本物かどうか定かではない。でもたぶんジェロニモなのだろう。そしてジェロニモという存在を規定するさまざまな物語。言語化されたたジェロニモのイメージ。この眺めているジェロニモと、言語化されたイメージのジェロニモを、脳は繋ぎ合わせる。これはジェロニモなのか。たぶんジェロニモなのだろう。夢想は尽きない。
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