「コンピュータのきもち」 山形浩生 を読んで
なにげなく古本屋で見つけて、百円で買った。なぜなら作者の山形浩生は、私の好きなSF作家フィリップ・K・ディックの翻訳者だったからだ。私はコンピュータに関して、まるっきり無知である。あえて避けていたのは、はまるのが恐かったからだ。20代の頃もし出会っていたら、たぶんのめりこんでいただろう。今は時間が限られているので、はまりこんでいくわけにはいかない。20代は時間が無限に有った様な気がする。また60代ぐらいになれば時間もゆっくり流れるのであろうか。物事にはまって、それだけを突き詰める生き方は悪くないと思う。おたくなどと蔑まれてしまうが、往々にして歴史はそこから始まったりする。コンピュータの歴史もそいうものらしい。
コンピュータとは人の感覚を増幅する事が出来る、人間の進化の可能性としての道具(存在)なのかもしれない。その為には素直にものとしての存在を認識し、言語で考えるのではなく人が本来持っている感覚に身を任せ、そのもの自体の中に入り込み知覚する。それを身体の内部に取り込み咀嚼する事によって身体の一部となす。またその一方でコンピュータ(機械)は意志を持ち(既に持っているのかも)、人より上位レベルの存在になるのかもしれない。人が思考した世界は、多次元化された宇宙の中に必ず存在すると思うから。
この本を読んで感じるのは、作者のコンピュータへの愛情であり、それがあるからコンピュータに関心が薄い人が読んでもおもしろいと思った。コンピュータを身体の一部として感覚する事が出来れば、身体感覚の拡張として利用できるんだなと、ちょっと遅れて考えさせられた。いろいろ深いところで思考できる、感覚的には好きな本。
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