ゲーテの“ファウスト”の2章、3章は、はたまた不思議、神話の世界になっている。その飛躍は、どこにいくやら、あすこにいくやら、わからないところが面白いし、わからないのでロマンがある。そこには、人の本質があるのかもしれないが、ないのかもしれない。元々人は、“自分がわからない”もしくは、“人という生き物がわからない”正体を知らないのである。そこに神秘が存在するし、探究心が存在するのである。
あまり、わかりきったことを言うと人生が楽しくなくなる。自分の存在意味を理解するのが難しくなる。“なぜ自分は生きているのか?”“なぜ自分は謙虚に生きることができないのか?”それらを考えると、人生は無駄だと感じることがある。これが、ファウストの一番はじめの問いかけである。そう、人は、すべてを知らないのである。知れないのである。森羅万象を知るなど到底無理。無理な物を無理して会得しようとは、人生の無駄である。もしくは、自己満足の何ものでしか。ならば、食うや歌えの、果てまた、魔術、占い、神様、仏様?とくる。それこそ人生のダイナミックさであり、人生を楽しむ方法なのかもしれない。しかし
ファウストを読んでいると、漫画の“ワンピース”を思う。作者はいろいろな神話から、題材をとっている。それは多くは現代版の神話である。神話の中には、人の知り得ない音が、聞こえる。その音を聞いたことがあるように感じる。ホメロス(盲目)は音により物語を伝える。多々ある、人の心を一つにまとめることが神話である。(友達、絆)古事記の神々は、人を生み、感情を生む。神話を作る。そんな話を誰が聴くのか?私の話などどこに意味があるのか?唯一興味を持って聴いているのは、私のガキの“フミ”だけである。
その目がうれしくて生きているのかもしれない。人生を楽しもう。既に遅いのかもしれないが。いまは、JJ ギブソンの“生態学的知覚システム”を読み、コンピュータをどのようにすると人に近づけられるのか考えている。しかし、私は、言わなかったけ?“人は人を知ることはできない”ましたや
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