ピーター・フランクリンの“マーラーの生涯”を読むのであるが、“表現できない物を表現する、もしくは、表現しようと努力する”ことの難しさと、その難しさを知りながら、あえて時間をかけて表現する人生を振り返る、難しさをつくづく思うのである。そこのは、人生をまじめに生きる人の人生の価値を浮かび上がらせる、上澄みが存在するのである。(こんなことを書いているのだが、私にとってこの本は、理解できなかったに等しい。なぜならば、私は、マーラーの曲と、その時代の曲を思い起こすことができないのである。)
音楽を音楽で表現する。音楽を言葉で表現する。どちらも難しい問題である。音楽で表現する場合には、五線譜の意味(作曲家の意図)をその音楽に解釈として表現しなければならない。そこに指揮者による曲の違いが、生まれてくるのである。かたや音楽を言葉で表すのは至難である。多くの人が、マーラーなんて知らない。(私の周りにはほとんどいない。靴屋のせい?)しかし、人には原風景が存在し、例えば“赤とんぼ”と言うと多くの人が“夕焼け小焼けの赤とんぼーー”とメロディーがでてくるのではないだろうか?その人々に共通する善意ある共通認識をもとに。
ここからが、商売の話。今、スニーカー(私が運営しているフィールド)は、ナイキが売れている。それも恐ろしいほど売れるのである。もちろん、すべての物ではないのであるが、売れる物がこれまで以上に幅広く、売れるスピードもはやい。(先日もフォームポジットには、200人が並んだ)弊社において、ナイキは稼げる商品であり、今、もっとも気にしなければならないブランドである。しかし、他のお店の人に言うと、ナイキは売れないブランドのイメージを引きずる。その共通する無知の認識を取り外さなければ、儲けることができない。
多くの人は、出来高、取引、熱狂へ走るのであるが、そこには、“理由なき熱狂”が存在するのである。それは“無知なる熱狂”と同等であり、多くの改善点を残すのである。と言っても、私も同じである。その無知なる熱狂を理解し、それに乗る、反る。それが戦略であり、そこが本当に難しいのである。
今日は、韓国で仕事である。本など読んでいる場合ではないのだが。
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