マーラーを理解しようと始めた、マーラーに対する読書“マーラー 音楽観相学 TH.W.アドルノ”の本を読み終えて何もわからなかった自分。どこかの荒野にて一人でぽつんと立っている自分をみて、やはりもう少しマーラーの曲をと本日は、“二番の復活”を聴くのだが、やはり理解に苦しむ。どうしてなのか?彼の曲の違和感とは、どこからくるのか?もしくは、彼の曲の親しみ安さはどこからくるのか?理解するために私は、“マーラーの生涯、ピーター/プランクリン”を読み始めようとページをめくる。
私は、なぜ現代において、マーラーがこれほどの人に愛され、(しかし、私の周りの人はマーラーの存在を知らない人がたくさんいるのだが)理解しがたい闇の中の人として君臨するのか、理解することが、世の中のトレンドを理解することになると理解しうる公式の一部なのではないかと想像するのである。実際にマーラーのフレーズの中の“ガキが遊び回り、生と死の狭間を歓喜する様子を想像させる”中に人生の一部を投射するのである。そこには、積み上げてきたものが何も無い本当の“生(死)”が存在し、誰でもが普遍的になりたいが、普遍的になれない自己の存在を表すのである。(もっともらしいことを書いているのだが、曲を聴いていると“こんな感じだったけ?”と思うことしばしば。)
素人臭さをたくさんもつフレーズがなぜ一つの流れの中で、至高な物になるのか?それと現代は、どのように関係するのか?私の人生とは?私の生とは(もちろん死とは)この“死とは”は、エバの“使途”に関係するのか?エバは生物学的で、コナンに続く宮崎アニメは、精神系。ガンダムは機械系と精神系のハイブリッド。それは、何を意味するのか?私の友人の書いた絵は、ヨーロッパと東洋のミックス?それとも既に世界は一つ?
マーラーを聴く。それが今の私の今の課題である。
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