今日の一日の出だしは、知り合いのおじさんが、私の夢の中にでてきて、そのおじさんの葬儀に私を連れていくときに私は泣き、目が覚めた。先日、私の鍵の諏訪大社の鈴の紐がきれた所からこの話は、始まったのかもしれない。それが、朝の2時15分であった。この時間から起きていると、その日がとてもつらくなる。寝ることは、私の体を守る。しかし、寝るまでには時間が必要だ。時間は、私の思考を弄ぶのであるが、それが夢であった以外の事実をこの時点で表すことができない。知り合いの死を恐れる私は、吉田兼好の“徒然草”を想い、平家物語、方丈記の時間の流れを噛み締める。
音楽を聴きたいのだが、何を聞けばいいのかわからない。フルトベングラーのベートウェンではなく、どちらかというと朝比奈のベートウェンなのかもしれない。しかし、マーラーか?それとも、ただ生活の音で、特別な音は必要ないのか?音も流れて、時間も流れる。すべてのものはなくなってしまうのである。そこのは例外はない様に見える。宇宙においても誕生があり、消滅があり。
人の知識などは、チリである。知らないことを知る様に努力するのであるが、やはり知らないのである。その知らないことを気にしなくとも、生きることができるので、幸せがやってくるのである。“不思議な少年”は恐ろしい。幸せはすべて生活の中に入っているのだが、死もその中に存在する。宗教であるが、死とはせいの一部なのである。もしくは、生も死もないのかもしれない。
生物はなぜ年をとり衰退していくのか?子孫を残すことは、本当に私たちの言う、“進歩”ナノであろうか?技術は進歩し、ナノなどのテクノロジーは生活の改善を人々にプレゼントしている様にあたえるのだだが、自然は年々少なくなっている。言葉も少なくなっている。思考も?人は言葉でものを考え、ソシュールを思い、ウィトゲンシュタインの青色本を、6000がいくつまで減るのであろうか?
構造主義者は、コンピューターのプログラムを0と1で表し、脳外科はその0と1との間の思考を読解しようと思うのだろう。そこには音楽が存在し、しかし、誰も知らない。“2001年 宇宙の旅”のハルは、小津安二郎の熱海の旅館の一場面を見て泣くのだろうか?遠くたなびく霞か煙は、我が心の状態なのか、人の死なのであろうか?音楽を流しながら、時間が止まった感じを認識するのはとても難しいのであるが、心の中の時間はコントロールできるのである。心とは。夏目とは。1450グラムの脳の重さとは。そこには何があり、猫が見るのか?国芳は、何匹猫を飼っていたのか?
私は、年老いているが何も知らない。常に不安にしている。音楽を流すと死が近づく。そんな感じありませんか?
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