小学生の頃は、長崎に住んでいた。私の幼い時の記憶は、多くを長崎に負っており、長崎の空気は今も私の中に生き“ポッコ、ポッコ”と現実の生活の教訓として浮かび上がるのである。今の私は、現実的であり、決して原発が必要ないとは言わない。しいて言えば、これからの世界で人々が幸せに暮らすには今の技術において、もちろん危険と隣り合わせだが、原発は必要であると思うし、もちろん各々の国の政策の中にも原子力発電は、重要な政策の一部として、国の発展のために必要である。
今、新しく翻訳されたピンチョンの“V” を読んでいる。昔、読んだ”V”はわけもわからず、どこにどのように行き着くのか、行き着いたのかわからなかった。今もやはり同じなのであるが。その中にも原子力のはなしがでてくる。長崎にも原爆が落ちた。ピンチョンの中にもでているように、”原子力は人の人生を大きく変える力を持つ“そうなのだ、人生が大きく変わる。
私は、肥だめの前でおばあちゃんに胸を見せられ、乳首がない。小学校の3年の私には意味がわからなかった。今ではわかる。原爆で乳首がなくなったのだ。永遠になくなる快楽。失われたものほど人生には大きく感じられる。私は、その年の8月9日の登校記念日に倒れた。夏の暑い日であった。
最近の日経新聞の文化面に“岡井隆氏の原子力についてのコメント”が載っていた。危険ではあるが私達の生活に必要なもの。私もそのように思う。認識する人間は、なぜなのか理解でいないのだが(決して今の生活が幸せだとはいえない。)現代の生活を営もうとする。それには電気が必要だ。私達に必要なもの。その中で生きる私達の生活。晴れない日に、晴れという天気予報。
言語の中で認識する人類は、身体が自然に生きようとする力を理解せずとも、その力を必要とする。はやく福島の人が家に帰ることができるように。
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