靴屋をしてどのように、ソシュールの思想と対峙するのであろうか?と、とうとう“ソシュールの思想”にたどり着いた。たどり着いたと言っても“靴屋である”どんな風に解釈するのかなどは、本当に理解できているのか?と言うところから始めなければならないおぼつかないところであるのだが、あえて解釈するのなら。
靴を履くという“ランガージュ”があり、その中に個々の“ラング”が存在する。そんなラングを“パロール”として表す個々の人々の嗜好は、人々の“差異”を産むのである。その差異を埋めるために、多くの人が新しいものを作り、同時に破棄する。多くのものが、イノベーション(思考的、技術的)そして私達が存在するのだ。そこに過去からの影響をと同時に教示的な影響。それは何から産まれてくるのだろう?
1905年にアインシュタインは“相対性理論”を発表し、時間の流れの理解を一歩進める。そして、その流れの中に人は生きており、何が人を“熱く”させるのか?(私は、人の量とその傾向に進む臨界点が存在すると思う)そのアルゴリズムを理解しようと数学を理解する。しかし、高校数学で引っかかっているのである。はやはや。春も開け、“吉野の桜”も見に行けず、今日もどこかの喫茶店にて、本を読んでいるのであろう?
いや美術館に行く。
私の構造はどこに存在するのであろうか?
面白い。しかし、あくまでも”靴屋”である。(時間を割けない)世の中は、不景気である。多くの靴屋、スニーカー屋が、もちろん小売りが淘汰させられるのでは。時間、時代という”マザー、ネーチャー”には勝てないのである。(時代はネーチャーか?)
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