司馬遼太郎の“空海の風景”を読んだ。まず、司馬遼太郎の資料集めの凄さと、私達が日頃感じることができない、時代の空気、雰囲気、を何となく、自分なりに理解できた、感じることが出来たことに、この本を読んだ意義があったのではないかと思う。作者自身が、あとがきにて述べている様に、歴史的な資料があまり残っていないので、おおくの部分が想像になってしまい、そこの部分が面白くもあり、難しさなのであろう。
空海は密教を唐にわたり学び、その得体のしれない、一歩間違えばいかさま宗教にしかならない教義を、一つの確かな、宗教にし、体系を確立するのである。私が読んで思ったのは、比較人類学との共通性である。トーテム、ジバ、周縁などの比較人類学のような考えを(もちろん人類学は人と人の関わりにとのツールを使う)自然の中の自分の位置を確認するのに使い、自己同一性、すなわち自然と自身の融合をはかることにより仏となる。などは、しいて言えば今の人類に必要な思想のツールではないのではないだろうか?
高野山は空海が基礎を作った宗教都市である。そこで思い出は、坊主の足音と、鐘の音と、我がガキが走り回る姿。思考は回り一所にとどまることをしないのであるが、すべての物に注解が必要な様な世界が訪れるような幸せが来ることを祈り、東京にて生きている。
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