先日、外苑西道りにある“福蘭”というところで飯を食った。(詳しくは追々このブログにて報告)その中には、あのマッドフットの今井君と小坂(UBIQ)が私の隣におり、スニーカーのこと(?)、世の中の流れ(?)つまりどうでもよい話を、飯を食べながら話していたのである。その中で、今井くんが読んでいる司馬遼太郎の話をし、その後、本の話になった。
まず僕は本好きである。このごろ興奮したことの一つは、ヘーゲルの本を読んで感じたことである。もちろんすべてのことに共感する訳では無いのだが(時代が違いすぎる)なるほどと思うこと、理論的なものの考え方(弁証法的)と幅なるものを感じただけなのかもしれないが。とりあえず、興奮したこと、読んでいる自分を鳥瞰図のように見ている自分を感じ取るとこができる。
夜も遅く、今井くんと小坂と本の話をし、今井くんが“マルクス”の話をした。マルクスはヘーゲルを学び、その後に唯物論(世界は物質でできている)に至り“資本論”なるものを書いた。私は声も嗄れ、言いたいことも満足に言えなかったのだが、私の考えは。
まず、世の中に分業(division of labor)なるものが登場し、アダムスミスが“国富論”なるものを世の中に資本主義なる考え方が浸透してくる。(もちろん産業革命、エンクロージャ運動、他の多くのことの兼ね合い)その中での、労働者と資本家の対立(もちろん摂取するものがされるものを使う)の中で、プロレアーとが世の中を治める時間の流れを押し進めようと、よりよい生活をというのがマルクスの考えであると思っている。(もちろん冷戦時代のロシアの政治は、マルクス主義ではなく、独裁政治である。)
ここでいつも私が思うことは、
1、時間の長さ
2、国の型(どのような政治形態、権力の行使、)
3、国民の教育のレベルの向上、それは世界の人の知識の向上
そして、フクヤマの述べる“歴史の終わり”に繋がるのかもしれないが、果たしてそうなのか?などと考えると終わりがない問題になってくる。私などは今“マルクス自身の手による 資本論入門”を調子良く読んでいるのだが、専門ではないのでこの本が役に立たない。(これが本選びの難しさである)
もちろん、小坂が言っているように物事を一周してから判断をしたいのだが、物事とは一周するのがとても難しい。時間がないし、もしかしたら、一周ではやはりわからないことだらけなのではないかと思う。また、その競技場の大きさも決まっていない。それを楽しめるのか、楽しめないのか?が人生を楽しむのか?そうでないのか?なのではないだろうか?
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