トマス、ピンチョンはアメリカの自由と個人主義(これは国のあり方を逆の意味において意味している)を代表する作家であると思う。彼の生活スタイル、世の中に出てこない、とは市井の中で生活する人に、希望とスノブな生き方の手本として存在させている。しかし、彼の作品が世の中に与える影響は果てしなく大きいのではないだろうか?(スノブなるゆえの人気の高さ)私は、もし彼がノーベル賞をとったら村上春樹はノーベル賞をとれないと思っている。村上春樹の小説には多くの部分でピンチョンの影響を受けた後が見られる。(これは少しは知らない人も興味が少しでも涌くように)
とりあえず、それはどうでもいいことであるのかもしれないが、人にとってその本人の、その生活スタイルを作ることは、とても大切なことであると思われる。特に、まじめに生活(生き方)を考えている人は自分の生活、生き方の“スタイル”を真剣に考えているのではないだろうか?私でさえも42年も生きているとこれからの生き方を考えなければと思ったりする。(決して私がすばらしいといっている訳ではない。しかし、まじめに生きようとは思っている)まず時間が足りないなどと思ってしまう。その対策として1、テレビは見ない 2、夜外出しない 3、ねーちゃん遊びをしない などなど また、自分の馬鹿さ加減さを克服する方法として、1、本を読む 2、人と話す 3、寝る(物事を考えない) おこなっている。
そんなスタイルを考え、実践しているととても地味な感じになる。商売も地味になる。一つずつ物事を、こなしながら続けるのは本当に骨の折れることである。時には、ピンチョンの小説の中の登場人物ように派手にかっこ良く(もしくは、派手にダメな感じで)登場してみたい。しかし、世の中そんなに甘くない。世の中とはKが味わう様な感じではないだろうか?(ここではもちろんカフカのことをいっている)ピンチョンはカッコいいのである。
イリアスは、平家物語と同じように口伝されたものを文字にした。ないものを(しかしある)目に見えないものを見える型にする。この目に見えないものと見えるもの(意識、思想など)は言葉に現れ、言葉が意識に影響を与えていると初めて(?)いったのはソシュールである。彼の思想は、生徒のノートでしか知ることはできないが、世の中には約6000語あり、多くの言語が滅びている。そして、そこに存在する、思想、意識はどこにいってしまうのだろうか?(生きる上ではとりあえず関係ないが、その汁機会を逃すことはとても残念なことである)
これを書き、一つになる部分、行動と意識。私はどこにチャプターを向かわせようとしているのか?こんな感じで今日もいく。(文章はダサイが人を馬鹿にした内容が僕らしい)とダメさ加減全開で、南無阿弥陀仏、マニア弥陀仏(方丈記を参照)”そら”見たことじゃない(松尾芭蕉である)こんなのは今の世の中には流行らない。ダサイ感じで本日終了
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