むかし、むかし、若いーーー”人生はまれに肴にて子らみながうましうましとくひてくうときぞ”なのか、“五月雨を大河を前に家二軒”なのか、“唱ふれば神も仏のなかりけり 南無阿弥陀仏 真美阿弥陀仏” なのかといろいろ解釈できるのだろうが、人生40年(42歳である)も生きると、そろそろ自分の限界も見えてくる。もちろん時間的なことであるが。
仏教の教えの中には、死を人生の一部と見なし、心の平和を、人生の意義を問い、死の恐れをなくす教えがある。しかし、私といえば、困ったときの南阿弥陀仏、南阿弥陀仏であり、それ以外はすべてを忘れてしまっている。何ともはや。鴨長明の方丈記の終わりの印象を共有する我が切なさである。(本日は、皆さんに解注させることが多いと思う。まさしくこれは、皆さんと私の中の共有できない部分であると思う。)多くの人がその日、その日を生きており、その濃度とはその人その日によって違ってくる。まさしく、私は生をまじめに、私なりにしか生きていないのだ。
努力という物は、報われるのか?などといった意味があるのかないのかわからない質問が存在したとしよう。これは、その生き方の限度の問題であり、その問題の箱の大きさがわからなければ、その答えもわからないのである。(マンキュウの経済学の十題原則の一つ、すべては限界で考える、そして、三島がいう小説の書き方とは、箱の枠をはじめに決めることなのである。)そうすれば、このように飛び跳ねた、ブログにはならないのでは?それも私の私なり。
そして、商売。スニーカー(靴)という物を売っている。生きるために売っている。(買っている)商という言葉が、中国の“商”の人たちにより、生きるために(国の存続の意思を表すために)行われていた集団的行為である。となると、この行動は私にとって大切なことである。生きなければ、ならないのだから。しかし、今の世の中は、生きることだけならばそれほど難しくない。なにせ、生死をかける必要が(死が遠くなった世紀、なのである。これも私なりの商売の仕方であり、これ以上これ以外のものではない。
だから、今の若い人は働かないというのではなく、今の人の多くは、まじめに働かないのである。だから、私もだらけてしまう。困ったものである。人生42年だらけっぱなし。しかし、それでもしょうがないとも思う、けっこう楽しいのだから。わからないことだらけ。問題だらけ。人生で読みたい本はたくさんあるが、それを読んでもすぐに忘れるだけ。
それでも、晴れの日はうれしい。清々しい。朝.
It is fine
Life is fucking shit, fucking beautiful
Also I am
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