すべてのことはわからない
先日、赤城山に登ってきた。ひとりで登る山は、考えることがおおくあり、初めのうちは、どうしようもない事を延々と考えている。しかし、そのことが何を意味するのかは、結局わからない。わからない自分とそこに存在する、自然。自然の中に存在する自分。その自然に属する、自分の存在をあえて言うならば、自分の存在自体が意味をなすことであるのか、疑ってしまう。
人とは、なぜ存在するのだろうか?多くの人が、そのようなことは考えずにただ生活する。私だって何も分からずに、生活している。その理解できないことに、意味はないのかもしれない。しかし、先日読んだ”日高敏隆”氏の本には、いろいろ考えることがあった。生物とは、種を残すために存在しており、ここの個体の存在とはとるに足りないのである。(もちろん個体の存在があるので種が存在するのであるが)
私の存在とは何かと考える。そこには、すべてのことが分からない、ということが存在している。ならば、なぜ書く。そこに私は矛盾を感じ、生活している。それは、何を表わすのか?そこには、ロゴスをロゴスをもって説明するという思想の淵をさまようのではないのだろうか?
とりあえず、スニーカーを。それが何を意味するのかもわからないが。
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