無知なることを知ること
人生を長く生きると人の自分の無知を思い知らされること。自分の人生を見ても無知であることを、本当に感じている。もちろんそんなに真剣に生きなくてもいいのかもしれないが、自分の性格上どうにもならない。私は、宇宙のゴミだ、しかし、ゴミの存在する意味を問いただそうと必死である。 死後に、私の気持おちがどこに行くのか? イデアの漂う認識の中に、そのアイデアを見つめようとする。
世の中は、不思議なことばかりだ。朝比奈氏のベートーベンの3番を聞くと涙が出るが、カラヤンでは感動しない。どうでもない、(高価ではない)ティファニーのプレセントに感動する、私と小説の登場人物。サイードの晩年のスタイル。芸術論。多くの人の上に立つ技術とそれを支える人の思想。人々の思想的なラグ。(計量経済学が日々解決しようとする問題と同じである。)人は、いやそんな余裕はない。自分はどこに行こうとしているのか?
しかし、私は幸福である。世の中の多くの人が知ることのない”無知である”ということを知っているのだから。私は、それを射精の3秒前と呼ぶ。まさしく太陽肛門である。(バタイユ的使い方ではないが、あくまでの私の人生の無駄さ加減について。)
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