Ted Kooserの“DELIGHT & SHADOWS”をなけなしの英語力を使いよんでいる。ヒューリッサ賞をとったこの詩を読んで、やはり詩、言葉とは難しいと本当に、感じるのである。言葉と言葉の間のイメージがなかなか頭の中に浮かんでこないのである。(なかなかなのか全然なのかはなかなか言い表すことはできないのだが)それがやはり英語であるのかそれとも日本語であろうとも?言葉を話す、意味を理解する、その構造を理解する、今までの生活のイメージを他の人と共有する。いろいろな役目が言葉にはある。しかし、この言わんとする言葉の中にある、イメージとオトマトケは、心の弧線に触れてこなければ、感動が生まれない。
吉増剛造の“静かなアメリカ”を平行して読む。共感できるところ(できないところ)、それが理解できる、言葉の可能性とその可能性が活きれる範囲が言葉にはあり、その言葉の意味を理解することは、その人の歴史(時の流れと、生き方)を理解することでしかないのである。そこには、人のもつ原風景のようなものが存在しその言葉から逃げることができいないのである。言葉は、人の陰なのである。その陰の存在を消すのは、しゃべることを辞めるしかないのである。(時間とは何なのか?)
不可解なるものが多いが(自分の存在こそが不可解なのかも)、今日も我らのオトマトケは“ちりんちりん”鐘がなる?
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